<はじめての外出>
共用の長い廊下を抜け、エレベーターらしき昇降機に乗り込む。
ボタンを押す必要すらなく、ぼくの行きたいフロアを察知したかのように、
重力をほとんど感じさせない滑らかな下降が始まり、すぐに一階のエントランスへと到着した。
大きなガラスの自動ドアを抜け、ぼくはついに、月世界の通りへと一歩を踏み出した。
「うわ……っ」
外の空気に触れた瞬間、まず驚いたのは、その『軽さ』だった。
一歩を踏み出すたびに、地面をほんの少し蹴るだけで、自分の体が驚くほど滑らかに、
まるで重力という枷から解き放たれたかのように前方へと進むのだ。
地球の6分の1の重力、という天文学の知識が頭をかすめたが、周囲の物品が宙に浮いていないところを見ると、
都市の基盤に高度な重力制御テクノロジーが組み込まれ、住民が最も快適に過ごせる程度の、
絶妙な「軽さ」に調整されているのだろう。
走ろうと思えば、どこまでも高く跳べそうな、全能感に近い心地よさがあった。
そして、ドームの隙間から覗く本物の宇宙空間、圧倒的な漆黒と、燦然と輝く青い地球の威容を間近に感じた瞬間、
ぼくの胸の奥底から、恐怖を遥かに凌駕する圧倒的なワクワク感が噴出してきた。
人間として生きていた頃、SF映画や宇宙飛行士のドキュメンタリーを見ては胸を躍らせていた、あの純粋な感動。
それが、今このうさぎの小さな体を内側から激しく突き動かしている。
この世界は、本物だ。本物の、宇宙の文明なんだ。
しかし、興奮冷めやらぬまま、広い歩道をササッと歩いていると、対向面からやってくるうさぎたちの視線が、
妙にぼくの体に集中していることに気がついた。
すれ違うスーツ姿の紳士うさぎが足を止め、耳をピクピクと動かしながらぼくを見つめ、
買い物帰りとおぼしき主婦風のうさぎが、口元を前足で隠しながら、何かを囁き合っている。
「……え? 何だ??」
不思議に思い、ふと自分の足元へ視線を落とした。
そして、氷水を浴びせられたかのように、その場で完全に凍りついた。
周りのうさぎたちは皆、お洒落なシャツやドレス、あるいは制服をきっちりと着こなしている。
対するぼくは、何一つ、身につけていなかった。
生まれ持ったクリーム色の毛皮、それだけ。
完全なる、一糸まとわぬ『全裸』だったのだ。
「わあああ!!」
人間の記憶と理性が、脳内で大音量の警報を鳴らし響かせる。
人間社会において、全裸で大通りを徘徊するなど、一発で現行犯逮捕、社会的抹殺を意味する最悪の大不祥事だ。
羞恥心で全身の毛穴が開き、顔が真っ赤に沸騰していくのが分かった。
あまりのパニックに、その場にしりもちをつき、短い前足でどうにか体を隠そうとするが、うさぎの体型ではどこをどう隠しても無駄だった。
「終わった……、誰か警察を呼んでくれ……」
絶望のあまり目を閉じ、お迎えが来るのを待った。
しかし、数十秒が経過しても、怒号や悲鳴、パトカーのサイレンが聞こえてくる気配はなかった。
恐る恐る目を開けると、ぼくのすぐ脇を、杖をついた優しげな老紳士のうさぎが通り過ぎるところだった。
老紳士は、小さな前足で体を丸めているぼくの姿を見ると、咎めるような色は微塵も見せず、
「おや、元気な坊やだね。風邪をひかないようにね」
とでも言うように、ふくよかな頬を緩めて、クスクスと穏やかな笑みを浮かべ、そのままのんびりと去っていった。
「……え? 怒られない、のか?」
周囲をよく観察してみる。
うさぎたちは確かに僕を見ているが、
それは「あらあら、お洋服を忘れてきちゃったのね」という、
人間の世界で言えば、小さな子供が靴下を履かずに外へ飛び出してしまったのを見守るような、
極めて寛容で温かい視線だった。
そうか、ここは元々が毛皮を持つうさぎたちの世界だ。
衣服を着用することは高度な文化の象徴であり、マナーではあるものの、本来の自然な姿である毛皮の状態に対して、
人間のような過激な「不潔」「罪悪」といった嫌悪感は抱かないのだろう。
彼らは本質的に、極めて穏やかで、慈悲深い種族のようだった。
致命的な社会的抹殺を免れたと知り、ぼくは心底ホッと胸を撫で下ろした。
せっかく外に出たのだ、このまま引き返すのは勿体無い。
少しだけ、この文明の空気を吸っていこうと、僕は恥ずかしさを抑えつつ、再び歩みを進めた。
街のインフラは、どこを見ても完璧に整備されていた。
歩道の脇には、葉や枝から美しい光を放つ街路樹が並び、都市の空気を常に最適化している。
歩くほどに、この世界全体の圧倒的な豊かさが伝わってきた。
やがてぼくは、エリア内で最も巨大な、ガラスと銀のフレームで構成されたドームの入り口へと辿り着き、その中へと足を踏み入れた。
ドームの自動ドアを抜けると、そこは光と色彩にあふれた、ショッピングモールだった。
吹き抜けの天井は高く、人工太陽の心地よい光が空間全体を満たしている。
立ち並ぶ店舗のショーウィンドウには、うさぎの体型に合わせてデザインされた洗練された衣服や、
最先端の電子端末が美しくディスプレイされていた。
飲食店からは、スパイスや特製のソースで調理されたと思われる、みずみずしくも香ばしい、食欲を激しくそそる香りが漂ってくる。
行き交ううさぎたちの表情には一切の困窮や不安の影はなく、誰もが心からこの平和で豊かな社会を享受していることが、
その足取りの軽さから肌に伝わってきた。
「すごいな……本当に、信じられない世界だ」
人間としての知識があるからこそ、このうさぎたちが成し遂げた文明の偉大さが、骨の髄まで理解できる。
彼らは自然を破壊することなく、高度なテクノロジーと調和させて、このユートピアを築き上げたのだ。
驚きと深い感銘の連続に、頭のもやが一時的に吹き飛ぶほどの知的興奮を覚えた。
しかし、どれほど寛容な世界であるとはいえ、周囲の洗練された住民たちの中で、
自分だけが生まれたままの姿で歩き回っているのは、やはり精神的な落ち着きを欠く。
視線が集まるたびに、人間としての理性がチクリと痛むのだ。
「よし、今日のところは一度、部屋に帰ろう。
次に外へ出るときは、ちゃんと服を着て歩こう。」
ぼくはこれ以上の不審な行動を避けるため、自分の部屋へと、軽い重力を利用してリズミカルに引き返すことにした。
このストーリーのショート動画も作成しています。
https://youtube.com/shorts/E655iGpU1YU?feature=share




