<月の街>
ぼくは窓ガラスに鼻先を押し付けるようにして、外の光景を凝視した。
そして、完全に言葉を失い、呼吸の仕方さえ忘れてしまった。
「何だ……ここは……!」
窓の外に広がっていたのは、緑豊かな中世のファンタジー世界でもなければ、見慣れた日本の街並みでもなかった。
それは、想像を絶する規模で構築された、驚異の近未来都市だった。
地平線の彼方まで続く広大な土地に、直径数百メートルはあろうかという巨大な半透明のドームが、
無数に連なり、まるで巨大な真珠の首飾りのように連結している。
ドームとドームの間には、複雑な幾何学模様を描くようにして、銀色に輝くチューブ状の軌道が縦横無尽に巡らされていた。
その半透明のチューブの中を、流線型の、信じられないほどの速度を持つモノレールのような機体が、全くの
無音で、滑るように滑走していくのが見える。
さらに上空を見上げれば、鳥のような、あるいは魚のような有機的なフォルムをした流線型の飛行艇が、
美しい軌跡を描きながら大気を切り裂いていた。
だが、何よりもぼくの魂を震撼させたのは、そのさらに上にある『空』だった。
そこに、青空は存在しなかった。
昼か夜かの区別すら拒絶するような、底なしに深く、吸い込まれそうなほどに濃厚な漆黒の宇宙空間。
その絶対的な闇のキャンバスに、押しピンで留めたかのように鋭い輝きを放つ、無数の星々がまたたいている。
大気の揺らぎがないため、星の光は微塵もブレることなく、冷徹なまでに静止していた。
そして、天頂近く、漆黒の空の主役として君臨していたのは、圧倒的な質量感と神聖なまでの美しさ
を湛えた、巨大な巨大な球体だった。
鮮やかな大陸の緑と茶色、広大な海の深い青、そしてそれらを優しく包み込むように渦巻く、
絹糸のような白い雲の帯。うっすらと外縁部が発光しているかのように見える、生命の揺りかご。
「地球……だ……」
見間違えるはずがなかった。教科書で、映像で、幾度となく目にしてきた、ぼくら人類の故郷。
それが、手の届きそうなほどの巨大さで、頭上に浮かんでいるのだ。
ということは、引き算の論理として、今ぼくが立っているこの場所は――。
「…ここは、月…なのか?」
信じられなかった。
あの荒涼とした静寂の天体。その月に、これほど高度で、これほど巨大な文明都市が隠されているなど、
どこのSF小説の話だというのか。
混乱を極める頭をどうにか動かし、視線をさらに街の地上へと落とした。
そこを行き交う『住民』たちの姿を捉えた瞬間、ぼくの脳のヒューズは今度こそ完全に吹き飛んだ。
全員がうさぎだった。
上品な灰色の毛並みを持つミニレッキス、耳の垂れた愛嬌のあるロップイヤー、
そしてぼくと同じようなネザーランドドワーフ。
ありとあらゆる種類のうさぎたちが、当然の権利のように二本の足で堂々と立ち、
アスファルトのように滑らかな歩道を歩いていた。
しかも、彼らは一物も身につけない野生の動物ではなかった。
仕立ての良いスーツを着こなすビジネスマン風のうさぎ、
カジュアルなデニムのジャケットを羽織った若者らしいうさぎ、
華やかなパステルカラーのワンピースを風になびかせる女性のうさぎ。
彼らは皆、高度に洗練された衣服を身に纏い、革製の鞄を肩にかけたり、
装飾品を耳につけたりしながら、実に知的で、文明的な日常の営みを繰り広げていたのだ。
車のクラクションのような騒音は一切なく、ただモノレールの微かな駆動音と、
彼らの話し声らしき穏やかなハミングだけが、静かにドーム内に満ちていた。
あまりの衝撃に、窓ガラスに額を押し付けたまま硬直していると、
突如、部屋の対角線上から「ピコン!」という、高音の澄んだ電子音が響き渡った。
あまりにも唐突な音に、ぼくの耳がピンと立ち、短い尻尾が文字通り跳ね上がる。
驚いて振り返ると、先ほどまで何もなかった部屋の隅のデスクの上、
円盤状の金属装置から、一条の淡い青緑色の光が天井に向かって放射されていた。
光は空中で複雑に交差し、明滅を繰り返しながら、急速にその密度を増していく。
まるで、空間に光の絵の具で立体画を描くかのように。
数秒ののち、光の粒子は完全に収束し、そこに見事な3Dのホログラム映像を形成した。
現れたのは、白いエプロンをきっちりと身につけ、どこか気苦労の多そうな、
けれどもしみじみとした慈愛をその表情に湛えた、中年女性のうさぎだった。
彼女のホログラムは、まるで本当にそこに立っているかのような立体感を持っており、
細かな毛並みの質感まで再現されている。
映像の中の彼女は、優しく耳を揺らしながら、ぼくのいるベッドの方へ視線を向け、口元を動かした。
内蔵スピーカーから、少しデジタルノイズの混じった、けれどもしみじみと温かい歌うような声が流れる。
『ぼうや、新しい仕事には慣れたかしら? ちゃんとご飯は食べてる?
たまには連絡しなさいね。そっちの生活が落ち着いたら、母さんもそっちの街に顔を出すわ。
無理しちゃダメよ』
そこまで言うと、彼女の映像は親愛の情を込めるように一度微笑み、次の瞬間にはぷつりと音を立てて消え去った。
残された光の粒子が、名残惜しそうに数秒間きらめき、やがて空気中に溶けるようにして霧散した。
この世界の、留守番電話のような機能なのだろう。
「ぼうや……新しい、仕事?」
その温かい音声を聞いた瞬間、脳の最も深い、凍りついていた領域で、カチリと音がした。
激しい情報の奔流が、記憶の隙間を埋めるようにして頭の中に流れ込んでくる。
それは、失われた人間の記憶ではなく、この世界におけるぼく自身のパーソナルデータだった。
ぼくの名前は――アルト。
ぼくの職業は、この月世界のメディア機関に所属する「若手記者」なのだ。
このシンプルで無機質なワンルームは、就職を機に生まれ育った家を離れ、
この大都市居住区へと上京して借りたばかりの新居だったのだ。
ベッドの横に置かれた鞄、デスクの上の取材用ノート、
それらの用途が、ごく自然な既知の事実として脳内にマッピングされていく。
「記者……。」
人間としてのアイデンティティと、うさぎの記者のバックグラウンド。
二つの設定が、ぼくという一つの肉体の中で奇妙に混ざり合っていく。
頭痛はさらに増していくようだった。
部屋の中に閉じこもって、天井を見つめていても何も始まらない。
この世界が本物なのか、それとも自分の脳が見せている壮大な幻覚なのか。
それを確かめるためには、この足で外へ出て、その空気を肌で感じるしかなかった。
ぼくは衝動のままにドアへと向かった。
玄関らしき場所には、靴箱のようなものはなかった。
当然だ、うさぎは靴を履かないのだから。
ドアの脇にある小さなタッチパネルに前足を近づけると、生体認証が作動したのか、
ピッと短い音が鳴り、シューという静かな減圧音と共に、金属製の重厚な扉が滑らかに横へスライドした。
このストーリーのショート動画も作成しています。
https://youtube.com/shorts/E655iGpU1YU?feature=share




