<約束の夢>
どこまでも、どこまでも広がっているような、黄金色のひだまりの中にいた。
そこは世界のあらゆる刺激から切り離された、圧倒的な安らぎに満ちた空間だった。
頬を撫でる風は春の午後のようにうららかで、鼻腔をくすぐるのは、少し甘い干し草の匂いと、
どこか懐かしいお日様の匂い。
視界のすべてが柔らかな黄金の光に溶けていく中で、ぼくのすぐ隣には、確かに『誰か』がいた。
その存在はあまりにも近く、あまりにも愛おしく、境界線が曖昧になるほどに寄り添っていた。
ぼくの肌に触れる、驚くほど柔らかで、温かみに満ちたふわふわの毛並み。
かすかな、けれど規則正しい心音と、くすぐったいような小さな吐息が耳元を打つ。
その主は、ぼくの魂の最も深い場所に直接語りかけるように、言葉にならない声を響かせた。
『……うん。やくそく』
それは物理的な鼓膜を震わせた音ではなかったかもしれない。
互いの存在のすべてを肯定し合うような、絶対的な信頼がもたらす心の共鳴。
互いの指先が触れ合い、固い誓いが結ばれたという確信だけが、胸の奥底にじんわりと熱を帯びて広がっていく。
このままずっと、このひだまりの中にいたい。
時間の流れさえも凍結させて、この穏やかな抱擁に身を委ねていたい。
そう願った瞬間、世界の調和を無残に切り裂くような、冷徹で無機質な電子音が、遥か彼方から響いてきた。
ピピッ。ピピッ。ピピッ。
冷たい金属の響きが、黄金色のひだまりの夢の世界に鋭い亀裂を入れる。
黄金の光はガラスのように砕け散り、ぼくの意識は、
底なしの深い水底から一気に水面へと引っ張り上げられるかのように、
急速に現実の側へと浮上し始めた。
あたたかなぬくもりが 指の隙間から滑り落ち、代わりに、ひどく乾燥した、冷ややかな空気が肌を刺す。
夢の名残を惜しむように、激しく抗おうとしたが、意識の覚醒を止めることはできなかった。
「……ん……っ」
重い瞼を、まるで幾重もの鉛の重りを持ち上げるかのような感覚で、ゆっくりと押し上げた。
じわじわと光が視界に差し込み、最初に捉えたのは、奇妙なほどに無機質な白色の見たこともない天井だった。
その天井には、ぼくの古い記憶の片隅にあるような、日本の一般的な住宅に見られるクロス張りの凹凸や、木目の温かみは一切なかった。
天井と同じ材質の無機質な壁がつづき、ブルーのライトがところどころで光っているが、
それではない均一な光が部屋の明かりになっている。壁自体からの放射のようだ。
未来の建材、あるいは極めて高度に精製された合成樹脂を思わせる、
どこか人間味を排除した無機質な美しさがあった。
「ここは……どこだろう……? 自分は、一体……誰だろう…?」
自分の声を出して現状を問おうとした。
しかし、口から漏れ出たのは、記憶にある自分の声とは似ても似つかない、
ひどく頼りない、掠れた高い音だった。
まるで小さな子供か、あるいは小動物の鳴き声のような高音。
変だ、ぼくの声はもっと低く、胸の奥から響くような落ち着いたトーンだったはずだ。
自分の喉に手を当てようとして、ぼくは次の、そしてより決定的な異変に直面することになった。
頭の中に、濃く、重い霧が立ち込めている。
思考の歯車が完全に錆びついてしまい、一回転するごとに激しい軋み声を上げているようだ。
自分の名前を思い出そうとする。……真っ白だ。
年齢は?自分がこれまでどのような人生を歩んできたのか、どんな街で暮らし、
どんな人々と笑い合っていたのか。
それらの記憶が、まるで大雨に打たれた水彩画のように激しく滲み、境界線を失い、
ただの無意味な色彩の濁りへと変わっていた。
完全な記憶の喪失。すべてが失われていた。
しかし、その底なしの空白の中で、たった一つの『絶対的な確信』だけが、
剥ぎ取られることのない錨のように、胸の奥底に深く突き刺さっていた。
(ぼくは、人間だった――)
三十代か、あるいは二十代の後半に差し掛かった、ごく普通の『人間の男性』として、
確かに二本の足で立ち、複雑な社会の中で生きていたという強烈な前提。
その事実だけが、なぜか脳の防壁をすり抜けて残されていた。
しかし、その確信と、いま目の前にある現実との間には、到底埋めることのできない巨大な溝が横たわっていた。
体を動かそうと、身をよじる。
ベッドのシーツは、驚くほど滑らかで、まるでシルクと最先端の化学繊維を融合させたかのような、
摩擦抵抗の極めて少ない質感だった。
そのシーツを押しのけようとしたぼくの両手が、視界の端に映り込む。
その瞬間、ぼくの思考は完全にフリーズした。
「な、んだ……これ……っ」
そこに伸びていたのは、見慣れた五本の指を持つ人間の手ではなかった。
短く、丸っこく、全体がクリーム色の柔らかそうな毛皮で覆われた、どう見ても『動物の前足』だった。
指の代わりに、小さな、けれどもしっかりとした爪が毛の隙間からいくつか覗いている。
混乱のあまり、その前足を自分の顔に押し当てようとしたが、腕自体があまりにも短いため、
胸を張るような奇妙な体勢にならざるを得なかった。
さらに、視界の位置が、ベッドの面から妙に低い。
まるで世界そのものが数倍に巨大化したかのような、
あるいは自分が信じられないほど小さな存在に縮んでしまったかのような、強烈な遠近感の狂い。
ぼくの心臓は、ドラムの乱打のように激しく脈打ち始めた。
狂いそうなほどの混乱の中で、ぼくは右の「前足」に、何か硬質な違和感を覚えていることに気がついた。
何かしらの物体を、毛に覆われた手のひらの間に、きつく握りしめているのだ。
恐る恐る、短い前足を開いてみる。
毛皮の上に転がり出たのは、この真っ白で未来的な空間にはおよそ不釣り合いな、
ひどく時代遅れで、無骨な黒いプラスチックの塊だった。
それは、大人の手のひらにすっぽりと収まる程度の、厚みのある長方形の端末だった。
上部には細長い液晶画面が配置されており、その下には、いくつかの小さな、丸いゴム製のボタンが整然と並んでいる。
側面には、衣服のベルトやポケットに引っ掛けるための、頑丈な金属製のクリップが取り付けられていた。
プラスチックの表面には、長年にわたって擦り付けられたであろう、微細な傷が無数に刻み込まれており、
角の部分は摩擦で丸みを帯びてテカりを見せている。強烈な使用感が、その物体から漂っていた。
「これは……『ポケベル』だ」
驚くべきことに、その言葉は、何のためらいもなくぼくの口元から零れ落ちた。
自分の名前すら分からない、ここがどこの世界かも分からない。
それなのに、二十世紀末に地球の日本という国で爆発的に普及し、
今や歴史の遺物として博物館かジャンクショップにしか存在しないはずの、
あの骨董品的な通信通信機器の名称だけが、完璧に脳内の辞書とリンクしたのだ。
前足の爪を立てるようにして、ゴム製のボタンをいくつか押してみる。
カチ、カチ、カチ。
室内の静寂を破って、小気味よい、けれどもしがないプラスチックの作動音が響く。
しかし、細長い液晶画面には何も映り出されなかった。
死んだように冷たい、灰色がかった緑色のガラス面が、ぼくの困惑した視線を跳ね返すだけだ。
側面のボタンを何度も押し込んでみるが、バックライトが灯る気配すらなく、
ただの沈黙したプラスチックの死骸のように、ぼくの手の中に納まっている。
「どうして……、こんなものを握りしめてるんだろう?」
どれほど問いかけても、返ってくるのは虚しい自分の声だけだった。
自分が置かれている状況のあまりの不条理さに、背筋を冷たい汗が伝わっていくのが分かった。
体は人間ではなく、見知らぬ近未来的な部屋にいて、手にはポケベル。
この異常事態の答えを求めて、ぼくはとにかく、
自分の今の姿を正確に把握しなければならないという衝動に突き動かされた。
ベッドの端へと這いずり、足を床に下ろそうと試みる。
その瞬間、凄まじい高度感に襲われて、思わず息を詰まらせた。
記憶にある「ベッドから床までの距離」の、少なくとも三倍は遠くに見えたのだ。
実際には家具のサイズが変わったのではなく、自分の身体測定値が激変しているのだと、
理性が遅れて警告を発する。
「おっと……!」
意を決して床に飛び降りると、トスン、という軽い音と共に、足の裏に独特の弾力ある衝撃が伝わった。
フローリングのように見える床は、しかし木材ではなく、かすかに衝撃を吸収する特殊なポリマー素材のようで、
ひんやりとした不快な冷たさは全くない。
下を向いて、着地した自分の「足」を凝視する。
そこにあったのは、やはり人間の足ではなかった。
白に近いクリーム色の、一本一本が細く美しい毛で覆われた、丸っこい動物の足。
爪が小さく前方に突き出ており、裏側には肉球がなく、代わりに極めて密度の高い厚い毛が、
天然の高級絨毯のように足裏を保護していた。
歩くたびに、わずかにササッ、ササッという、擦れるような音が立つ。
「冗談だろう……これじゃ、まるで……」
慌てて部屋を見回すと、壁の一面が、床から天井まで届くほどの巨大なガラス窓になっていることに気づいた。
遮光カーテンなどはなく、特殊な調光ガラスが使われているのか、外からの光を適度に和らげている。
ぼくはよろめきながら、半分立ち上がるような不自然な二足歩行で、その窓際へと近づいていった。
窓ガラスに近づくと、外の世界の明かりをバックにして、鏡のようにぼくの輪郭が鮮明に浮かび上がった。
そこに映し出されていたのは――。
「うさぎ……か?」
ピンと真っ直ぐに上を向いた、驚くほど短く端正な耳。
全体的に丸みを帯びた頭部と、ふっくらとした頬のライン。
毛並みは均一なクリーム色で、首の周りだけが少し厚めのタテガミのようになっている。
そして、何よりも印象的なのは、顔の半分ほどを占めているのではないかと思えるほどに大きく、
澄んだ、漆黒の瞳だった。
鼻の頭が、ぼくの緊張と連動してひくひくと小刻みに痙攣している。
「ネザーランドドワーフ……の、少年、なのか?」
恐る恐る右の前足を上げると、ガラスの中のうさぎも全く同時に前足を上げた。
左の耳を動かそうと意識すると、頭頂部にある短い耳が、小刻みに角度を変える。
自分の神経が、この毛皮の塊と完全に同調し、一本の狂いもなく繋がっていることを、
触覚と動的なフィードバックが冷酷に証明していた。
ぼくは、どういうわけか、人間の男性からうさぎの身体へと変貌を遂げていたのだ。
異世界転生、あるいは狂気の遺伝子実験。そんな言葉が浮かんでは消える。
しかし、ガラスに映る自分への驚愕など、次に目に入ってきた『窓の外の世界』の衝撃に比べれば、
些細な前触れに過ぎなかった。
このストーリーのショート動画も作成しています。
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