<記者、二日間眠らず>
取材を終えて植物園の巨大なドームを出る頃には、空はすっかり夜の色に染まっていた。
月面都市の夜は静かだ。しかし決して寂しい静けさではない。
透明なドームの外側では、都市へ伸びる無数のパイプラインが淡い緑色の光を帯びながら脈打っている。
その光は、まるで都市そのものが呼吸をしているかのようだった。
頭上には黒い宇宙がどこまでも広がり、その中に青く輝く地球が静かに浮かんでいる。
ぼくは思わず足を止めた。
「綺麗だ……」
昼間は巨大な工場のようにしか見えなかった植物園も、夜になるとまるで一本の巨大な生命体だった。
都市全体へ栄養を送り続ける心臓。その鼓動が、夜の静寂の中ではより鮮明に感じられる。
ライラ主任の言葉が頭の中で何度も蘇る。
『植物の遺伝子を再構築し、あらゆる物質の代替とする技術こそが文明の根幹なのです』
食品、繊維、建材、薬品、燃料。
すべてが植物から生まれ、使われ、再び植物へ還っていく。
それは地球では夢物語だった完全循環型社会だった。
それなのに――。
ぼくの頭の中では、あの地下へ続く厳重な隔壁と、地鳴りの音だけが何度も繰り返されていた。
あれは何だったのだろう。
ライラ主任は明らかに何かを知っていた。しかし語れない。
国家機密。
その言葉の重みだけが、胸の奥に沈殿している。
「……いや。」
ぼくは首を横に振った。
「今は記者として、見たものを書こう。」
考察は後からでもできる。
まずは今日見聞きしたものを、一つも漏らさず記事へ落とし込むことが先決だ。
そう決めると自然と足が速くなる。
今日は仕事帰りのカフェにも寄らない。
あの少女に植物園の感想を話したい気持ちはあったが、それ以上に今この瞬間の熱量を失いたくなかった。
モノレールへ飛び乗ると、窓の外へ流れる夜景を眺めながら取材メモを読み返す。
ライラ主任の説明。
若手研究員の誇らしげな笑顔。
建材プラントで暴走した巨大なツタ。
燃料ラインを流れる緑色の液体。
ページをめくるたびに、現場の空気まで蘇ってくる。
ぼくは何度もタブレットへ短いメモを書き足した。
「ここは比喩を使った方が伝わるな……。」
「写真はこの順番の方が読者に分かりやすい。」
駅へ着く頃には、頭の中で記事全体の構成まで出来上がっていた。
部屋へ飛び込むなり、ぼくは上着を脱ぎ捨てた。
タブレットを机へ置き、外付けの物理キーボードを接続する。
カチッ。
接続音が鳴る。
「この熱量のまま、一気に記事にまとめたい……!」
指が止まらなかった。
カタカタカタカタカタカタ……
キーボードを叩く音だけが静かな部屋へ響き続ける。
まずは植物園の第一印象。
巨大なガラスドーム。
都市へ伸びる無数のパイプライン。
工場と自然が融合した異様な光景。
続いて五大生成ライン。
食品から燃料まで、それぞれを読者が理解しやすいよう順番を組み替えながら文章へ落とし込んでいく。
ライラ主任の言葉は可能な限りそのまま引用し、自分自身が感じた驚きや疑問を挟み込む。
単なる技術紹介では終わらせたくない。
ぼく自身が見た感動を、そのまま読者へ届けたい。
時折、写真を拡大して見返す。
建材プラントで暴走したツタの迫力。
自己修復した建材の表面。
巨大なパイプライン。
どの一枚も記事の説得力を高めてくれる。
気付けば机の横には植物園で買った植物由来のカフェイン飲料が何本も空になっていた。
香草の香りが強く、飲むたびに頭が冴えていく。
「……もう一本。」
眠気を感じる暇もない。
文章を書けば書くほど、新しい表現が浮かび、構成も洗練されていく。
途中で何度か端末が鳴った。
ピコン。
ピコン。
誰かからチャットが届いている。
編集部かもしれない。
母親かもしれない。
だが、今だけは画面を見る余裕がなかった。
集中が切れたら、この熱は二度と戻らない気がした。
ぼくは通知を閉じ、再びキーボードへ向かう。
気が付けば、丸二日が過ぎていた。
三度目の朝日が部屋へ差し込み、散乱した生活用品や飲み終えたボトルを黄金色に照らしている。
鏡を見ると目の下には薄く隈ができ、毛並みもぼさぼさだった。
「……ひどい顔だ。」
苦笑しながら最後の一文を書き終える。
文字数は数万字。
写真レイアウトも見出しもすべて完成していた。
誤字脱字を一つずつ確認し、文章のリズムを整える。
そして深く息を吸い、
「よし……完成だ!」
送信ボタンを押した。
数十分もしないうちに編集長から着信が入る。
『おい!
途中で何度も連絡したんだぞ!
音沙汰がないから倒れてるんじゃないかと心配したじゃねぇか!』
「すみません……夢中になってしまって。」
『だろうな。今ざっと読んだが……これは凄い。
植物園を工場として描くだけじゃない。"生命そのもの"として描いた視点がいい。
地下の話も書き過ぎず、読者の想像を掻き立てている。最高の記事だ。』
編集長が珍しく少しだけ静かな声で続ける。
『お前、本当に記者向きだな。』
胸の奥がじんわりと熱くなった。
「ありがとうございます。とても楽しい取材でした。」
『約束どおり、まとまった休みをやる。それに特別ボーナスも付ける。
しばらくは仕事を忘れて遊んでこい!』
「はい。ありがとうございます。」
通話が切れる。
その瞬間、全身から力が抜けた。
ぼくはベッドへ倒れ込み、そのまま天井を見上げる。
極限の疲労。
しかし、それを上回る達成感。
この世界で初めて、自分が誰かの役に立てたような気がした。
目を閉じると、植物園の巨大なパイプラインを流れる緑色の光が瞼の裏に浮かぶ。
だが、その美しい光景の奥には、地下で聞いた低い地鳴りがいつまでも残っていた。
あれは何だったのか。
国家機密の地下施設。
誰も語ろうとしない「大地の脈動」。
月世界の不思議を明かしたい、その思いを胸に抱いたまま、ぼくの意識は深い眠りへと沈んでいった。
このストーリーのショート動画も作成しています。
https://youtube.com/shorts/VC_CzF5qwiE?feature=share




