<地下に眠る秘密>
それにしても、ぼくは、ただ、ただ、圧倒されるしかなかった。
朝から半日以上かけて案内された植物園――いや、この巨大施設を一通り見学してきた今なら、
もはや「植物園」という呼び名だけでは到底足りないと断言できる。
食品を生み出す植物。
服へと姿を変える植物。
建物を支える植物。
薬となって命を守る植物。
都市を動かす燃料となる植物。
ここでは植物は「自然」ではない。
文明そのものだった。
地球では鉱山から鉱石を掘り出し、石油を採掘し、金属を精錬し、時には動物の命をいただくことで社会が成り立っていた。
しかし、この月では違う。
ありとあらゆるものが植物から生み出され、役目を終えた植物は再び培養液へ戻され、新たな命へと循環していく。
ゴミ箱らしいものを一度も見かけなかった理由も、ようやく理解できた。
廃棄物という概念がほとんど存在しないのだ。
食べ残しは発酵槽へ。
繊維くずは培養素材へ。
薬の抽出後に残る葉脈ですら肥料へ還元される。
巨大な施設全体が、一つの生命体のように呼吸しながら循環を続けている。
ライラ主任は誇らしげに胸を張った。
「私たち研究者は植物を育てているのではありません。植物と共生しているのです。」
その一言が妙に心に残った。
ぼくはガラス張りの回廊から施設全体を見下ろした。
何十本ものパイプラインが幾何学模様を描くように走り、収穫用の機械が静かに飛び回る。
無数の研究員たちが忙しく動き回っているが、誰一人として無駄な動きをしていない。
巨大な機械が低いうなりを上げながら稼働し、そのリズムに合わせるように植物たちも静かに揺れている。
まるで巨大な心臓が脈打っているようだった。
「……ここは植物園じゃない。」
思わず独り言が漏れる。
「月世界そのものを生かす『巨大な生命工場』なんだ。」
ライラ主任は微笑みながらうなずいた。
「その表現、とても素敵ですね。記事で使われるなら、きっと読者にも伝わると思います。」
記者として、これほど魅力的な題材はない。
しかし同時に、胸の奥では別の感情が芽生え始めていた。
違和感だった。
ぼくはこれまで説明を受けた内容を頭の中で整理していく。
食品も服も建材も薬も燃料も植物から作られている。
理論としては理解できる。
だが、一つだけ説明されていないことがある。
いや、意図的に避けられているように思えた。
ぼくは足を止め、ライラ主任へ向き直った。
「ライラ主任、一つお聞きしてもいいですか。」
「もちろんです。」
「これだけ巨大なシステムを稼働させ、さらに都市全域へエネルギーを供給するためには、
とてつもない初期動力が必要になりますよね。」
ライラ主任は静かに耳を立てる。
「植物がエネルギーを蓄えることは理解できます。
でも、その植物を育てる施設を動かす最初のエネルギーは、一体どこから来るんでしょう?」
ぼくはガラス越しに広がるドーム全体を指差した。
「太陽光だけでは計算が合わない気がします。月面は昼夜の周期も長い。
しかも都市全体へ電力を送り続けるとなれば……」
言葉を続けようとした瞬間だった。
ライラ主任の表情が、ほんのわずかに変わった。
それまで快活に話していた彼女が、一瞬だけ口を閉ざす。
そしてゆっくりと視線を施設の奥へ向けた。
ぼくもその視線を追う。
巨大なパイプラインの先。
一般の研究区画とは異なる方向に、分厚い金属製の隔壁があった。
黒い装甲板で覆われ、赤い警告灯が規則正しく点滅している。
その周囲には完全武装の警備員が何人も立ち、何重もの認証ゲートが設けられていた。
「……あそこですね。」
ぼくが小さく呟くと、ライラ主任は苦笑した。
「さすが記者さんですね。目の付け所が違います。」
少し沈黙が流れる。
やがて彼女は小さく息を吐いた。
「いい質問です。本当に鋭い。」
そう前置きをしてから、声の調子を少し落とした。
「あの地下層は国家最高機密に指定されています。
取材はもちろん、私たち主任研究員でも立ち入れる者はごく一部だけです。」
「そこに答えが?」
「……申し訳ありません。それ以上はお話しできません。」
彼女は困ったように笑った。
「ただ、一つだけ言えることがあります。」
「何でしょう。」
ライラ主任は地下へ続く隔壁を見つめたまま静かに言った。
「この月には、私たちがまだ完全には解明できていない『大地の脈動』があります。」
「大地の……脈動。」
聞き慣れない言葉だった。
脈動。
生命を感じさせるその響きに、ぼくは妙な引っ掛かりを覚える。
植物文明。
巨大な生命工場。
そして地下に眠る脈動。
地球には存在しない未知のエネルギーなのだろうか。
植物だけでは説明できない「何か」が、あの地下深くに眠っている。
記者としての勘が強く反応していた。
その瞬間だった。
ゴゴゴゴ……
腹の底へ響くような低い振動が施設全体を揺らした。
床がかすかに震え、ガラス窓が細かく震動する。
天井から小さな砂粒がぱらぱらと落ちてきた。
「なっ……!」
ぼくは思わず手すりをつかむ。
周囲の研究員たちは驚いた様子もなく端末を確認し始めている。
だがライラ主任だけは、一瞬だけ表情を曇らせた。
その変化をぼくは見逃さなかった。
「今の音は?」
問い掛けると、彼女はほんの数秒黙り込み、やがて静かに微笑んだ。
「……聞かなかったことにしてください。」
それだけだった。
それ以上は何も言わない。
ぼくもそれ以上は追及しなかった。
いや、追及できなかった。
その笑顔は穏やかだったが、どこか「これ以上踏み込まないでほしい」と語っているようだったからだ。
施設見学を終えたあと、ライラ主任は気分を変えるように言った。
「少し遅いお昼ですが、食堂へ行きませんか? 研究員以外はなかなか利用できないんですよ。」
「ぜひお願いします。」
研究棟の食堂は驚くほど広かった。
全面ガラス張りで植物プラントを眺めながら食事ができる造りになっている。
おすすめセットは、植物由来のハンバーグに彩り豊かな花のサラダ、薬草スープ、
それに植物ミルクで作られたプリンだった。
見た目は地球の定食によく似ている。
だが、一口食べると風味がまるで違う。
植物だけとは思えない深い旨味が口いっぱいに広がる。
「これも全部、この施設で?」
「ええ。」
ライラ主任は嬉しそうに答えた。
「研究員たちの健康管理も、植物科学の仕事ですから。」
食事をしながら周囲を眺めていると、近くのテーブルで休憩中らしい研究員たちが小声で話しているのが耳に入った。
「最近、地下の地響き多くないか?」
「ああ。また昨日も鳴ったらしい。」
「始まると残業確定だから勘弁してほしいよ。」
「原因はまだ……」
そこまで話したところで、ライラ主任がわざとらしくコホン、と咳払いをした。
研究員たちはこちらに記者がいることに気づくと、慌てて口を閉ざした。
「しまった。」そんな表情を浮かべながら、食器を片付けて席を立っていく。
残されたのは気まずい沈黙だけだった。
ライラ主任は苦笑する。
「申し訳ありません、今のも聞かなかったことにしてください。」
「秘密が多い施設なんですね。」
「ええ。でも、その秘密を守ることも私たちの仕事なんです。」
その言葉の意味を考えながら、ぼくは窓の向こうで静かに脈打つ巨大な植物園を見つめていた。
見学の最後には一般公開エリアも案内してもらい、
子どもたちが植物と触れ合う展示や、市民向けの栽培教室なども見学した。
お土産コーナーにも立ち寄った。
研究施設としてだけではなく、市民の暮らしを支える教育の場でもあることを知り、
この巨大施設への理解はさらに深まった。
帰り際、正面ゲートまで見送ってくれたライラ主任に、ぼくは深く頭を下げた。
「今日は本当にありがとうございました。
植物文明の素晴らしさだけでなく、この世界で生きる皆さんの誇りまで知ることができました。」
ライラ主任は耳をぴんと立て、少し照れくさそうに笑う。
「記事、楽しみにしています。
きっと読者の皆さんも、この植物園をもっと好きになってくださるはずです。」
「ええ。」
ぼくは力強くうなずいた。
「必ず、最高の記事を書いてみせます。」
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