<月世界の心臓部>
朝のラッシュが始まる頃、ぼくは最寄り駅からモノレールへ乗り込んだ。
車両のドアが静かに閉まり、滑るようにホームを離れていく。
昨日までは見るものすべてが珍しかったこの街も、少しずつ「日常」として目に映るようになってきた。
それでも車内を見渡すと、この世界ならではの光景があちこちに広がっている。
窓際ではスーツ姿のサラリーマンうさぎがタブレット端末を片手にニュースを読んでいる。
その隣には、大きな鉢植えを大事そうに抱えた学生らしい若いうさぎが座っていた。
葉先が青白く発光する見慣れない植物だ。
学校の実験で使うのだろうか。
制服姿の子うさぎたちは楽しそうに笑い合いながら宿題の話をしている。
「今日、植物細胞の観察だよね。」
「昨日、水やり忘れちゃった!」
「先生に怒られるぞー。」
そんな他愛もない会話に思わず頬が緩む。
さらに車両の奥では、白いひげを蓄えた老うさぎがタブレット端末をいじり、
その隣では仕事帰りなのか夜勤明けらしい作業服姿のうさぎが大きく欠伸をしていた。
年齢も職業も様々なうさぎたちが、一つの車両で静かに朝を迎えている。
どこの世界でも朝は忙しいらしい。
ぼくは吊り革につかまりながら、流れていく街並みへ目を向けた。
窓の外では、透明なドームに覆われた住宅街が次々と過ぎ去っていく。
屋上には小さな家庭菜園。
壁面を覆うツタ。
公園には色鮮やかな花壇。
この世界では植物は景観ではなく、生活そのものなのだと改めて感じる。
やがて車内の大型モニターが切り替わり、ニュース番組が始まった。
『本日の植物生成率は98.7パーセントです。
昨日より0.4ポイント上昇しました。安定供給が見込まれます。』
爽やかな女性アナウンサーの声が車内へ流れる。
植物生成率。
昨日も耳にしたことのない言葉だった。
「今日はいい数字だねぇ。」
近くに立っていた老うさぎが嬉しそうにつぶやく。
「これなら野菜も燃料も安心だ。」
その隣にいた女性もうなずいている。
「今週はお花も安くなるかしら。」
どうやら、この数字は住民の暮らしに直結しているらしい。
天気予報のように毎日確認する数字なのだろうか。
植物園の稼働率なのか。
生産量なのか。
あるいは都市全体のエネルギー効率なのか。
分からないことばかりだ。
しかし、その「分からない」が記者としての好奇心を刺激してくる。
タブレットを取り出し、小さくメモを書き込んだ。
『植物生成率とは何か。後で質問する。』
記事のネタになりそうだ。
そんなことを考えているうちに、モノレールは高架線を抜け、街の中心部へ入っていく。
ビル群の向こうに、それは突然姿を現した。
「……え。」
思わず声が漏れる。
遠くに見えた巨大なガラスドームは、近づくにつれて圧倒的な存在感を放ち始めた。
いや、ドームという表現では小さい。
まるで一本の巨大な樹木が街の中心に根を下ろしているようだった。
駅へ近づくにつれ、その全貌が見えてくる。
ドームの壁面には無数の植物が絡みつき、太いパイプラインが枝のように四方八方へ伸びている。
それは樹木の幹から枝葉が広がる姿にも、生き物の血管にも見えた。
『次は、ルナガーデンシティ。ルナガーデンシティです。』
車内アナウンスが流れる。
ホームへ降り立った瞬間、巨大施設の全景が視界いっぱいに広がった。
「これが……植物園。」
思わず息を呑む。
想像していた植物園とはまるで違う。
ガラス越しに見える内部は、一面が緑色。
しかし、それは自然の森ではない。
何層にも積み重なった巨大な栽培区画。
無数の搬送レール。
巨大な配管。
空中を飛び交う輸送機械。
施設全体が一つの巨大工場であり、一つの生命体にも見える。
淡い緑色の液体が流れるパイプ。
透明な液体が循環する配管。
蒸気を吐き出す排気塔。
研究員らしいうさぎが慌ただしく行き交い、防護服姿の作業員たちが大型コンテナを搬送している。
その光景は、植物園というより未来都市そのものだった。
「ここが植物園……。」
ぼくは思わず苦笑する。
「いや……完全に近未来のハイテク工場地帯じゃないか。」
人間だった頃の記憶が微かによみがえる。
植物園と聞けば、花壇や温室をゆっくり散策する場所を想像する。
だが、ここにはそんな穏やかな空気はない。
この施設は文明を動かす巨大な工場だ。
月世界の心臓。
編集長がそう呼んだ意味を、ようやく理解し始めていた。
ぼくは巨大ゲートへ向かって歩き出した。
受付には誰も立っていない。
人感センサーがぼくを検知すると、柔らかな女性AIの声が響く。
『ようこそ、ルナガーデンへ。本日のご用件を確認いたします。』
記者証を読み込ませる。
続いて編集長から送られてきた特別パスを認証。
『報道関係者特別取材パスを確認しました。』
さらに顔認証。
虹彩認証。
最後に掌を軽く読み取り装置へ置く。
『認証完了。研究区画への立ち入りを許可します。』
低い駆動音とともに分厚い隔壁が左右へ開いた。
まるで宇宙船へ乗り込むような重厚なエアロックだ。
中へ入ると、一般見学ルートと研究区画への通路が分かれていた。
ぼくに割り当てられていたのは、もちろん研究区画。
一般客では決して入れない場所だ。
透明な壁で囲まれた巨大エレベーターへ乗り込む。
静かに上昇を始めると、施設全体が見渡せるようになった。
幾重にも重なる栽培棚。
青紫色の照明を浴びる植物群。
立体的に張り巡らされた搬送レール。
上にも下にも果てしなく続く緑の世界。
思わず口が開いたままになる。
「うわあ……。」
その一言しか出てこない。
ぼくが夢中になって辺りを見回していると、背後から落ち着いた女性の声が聞こえた。
「ようこそ、『植物園』へ。お待ちしておりました。」
振り返ると、銀縁の眼鏡を掛けた灰色の毛並みのうさぎが静かに微笑んでいた。
耳は真っすぐ天を向き、白衣は一分の乱れもない。
知的で、どこか誇り高さを感じさせる雰囲気の女性だ。
「私は広報兼、第一プラント主任研究員のライラです。」
そう言って丁寧に一礼する。
「本日は、植物がどのようにして私たちの生活すべてを支えているのか、
その秘密をご案内いたします。」
ライラ主任の案内で施設内を歩き始める。
培養液に浸された植物。
自動収穫装置。
巨大な生成設備。
目に映るものすべてが未知の技術だった。
ライラ主任は興奮気味に説明を続ける。
「我々は植物の遺伝子を再構築し――」
早口だ。
ものすごく早口だ。
専門用語も次々飛び出してくる。
ぼくは必死にメモを取るが、まったく追いつかない。
「あ、あの……。」
ライラ主任が振り返る。
「はい?」
「すみません……もう少し、ゆっくり説明していただけますか。」
ライラ主任は一瞬きょとんとしたあと、小さく笑った。
「失礼しました。研究の話になると、つい夢中になってしまうもので。」
どうやら、取材は一筋縄ではいかなそうだ。
そして、このあとぼくは、月世界の文明を支える「万能植物の五大生成ライン」という、想像を超える技術の数々を目の当たりにすることになる。
このストーリーのショート動画も作成しています。
https://youtube.com/shorts/VC_CzF5qwiE?feature=share




