65猪の鬼ごっことおまかせを
さて、各々今日も清々しい朝を迎えただろうか。ちょっぴり寒い秋空とはいえ、夏よりも幾許か快適な夜を過ごせただろう。少し控えめな気温で始まった朝は、日の出のぼんやりとした温かい光に目を覚ましても憂鬱感は少ないのでは無いだろうか。各々が新たな一日を迎える一方、僕はといえば・・・。布団から起き上がると、どこまでも高く続く天井の下だった。この異空間から出ると「色々とバランスが崩れる。」等とカイデンは供述しており、僕は簡易的な布団でいつも寝ている。閉鎖感こそは無いものの、あまりの殺風景さにもうそろそろ嫌気をさしてきている今日この頃だ。たまには陽の光でも浴びてみたいところだが、特訓中はそうもいかないらしい。僕は布団の傍らに置いてあった新しい道着に着替え、まだ若干の眠気を瞼に残したまま扉を開ける。するとそこには既にカイデンとセンがテーブルに座っており、朝食を既に取り始めていたのだ。ちなみにこの時、カイデンは小人サイズから通常の人間と変わらない大きさへとわざわざ変化をしている。
彼曰く「飯食う時ぐらい、同じ目線で食べた方がええやろ?」との事だ。それはちょっとした彼なりの拘りらしい。そういえば、なんだかんだ僕は日頃の疲れもあったが為に、三人での朝食を行うのは今日が初めてだな。彼らが囲うテーブルには和食に洋食、それに中華まで何でもござれのフルコースのメニューが並んでいる。驚いたのはこの料理たちを作ったのが、お手玉で対峙したエンキが担当したのだというらしい。確かに食に関しては、プロ料理人顔負けの色鮮やかな料理達。もちろん見栄えだけに留まらず、香りも食欲を唆らせる。けんけんぱでレースを競ったココに席を案内され、ちょうどセンの隣へと誘導された訳だ。テーブルにずらりと並ぶ豪華な料理達。というかこの人ら、いつもこんなの食ってたのかよ。でも、まぁいいさ。そんな過去の事を沸かせてわざわざ怒るような野暮を持ち合わせる必要も無いだろう。そうして僕の席にも朝食が運ばれる。・・・あれ?見た感じホテルなんかで見るビュッフェスタイルな朝食じゃないのか。ココやエンキが運んでくれるのか。なんて充実したサービスではないか。いや、ほんとこんなんなら疲れていても意地でも起きて・・・・・・。
「で、カイデンさん・・・。これは何ですか?」
自分の席に運ばれてきた料理を見て、僕は目を疑った。こんな事があるか?いやなんかのギャグか?振りか?今すぐお前に突っ込めと云わんばかりのこの献立はなんだ?僕は思わず、この言葉が真っ先に口に出たのだ。
「はい、これはペンです。」
すると彼は無表情な眼差しで、まるで教科書の申し訳程度に描かれた平面イラストのような風貌でカタコトにそう答えた。
「違うよ!そんな中学英語の教科書みたいな答え、求めてないんですよ‼︎」
と云うか質問と答えが全然噛み合ってないじゃないか!そんな怒りが拳に凝縮され、勢い良くテーブルを叩きつける。だが、そんな素振りをしても彼らは至って知らんぷりで、夢中に朝からチキンやらチャーハンやらに齧り付き、味噌汁を啜る。人一倍ガツガツと飯を喰らうカイデンはレンゲを指揮棒のように振るいながら、センへと合図を送る。
「センちゃん、そこのローストビーフ取ってくれへんか?」
「どうぞ。」
「おおきに~。センちゃん、これも中々イケるんやでー。」
「あら、だし巻き卵!」
センから手渡されたバーベキューソースがたっぷりかけられたローストビーフを手に取り、それをひょいっと一摘み。むしゃむしゃとわざとらしい咀嚼音を奏でながら、ご満悦の笑みを浮かべているカイデン。そしてお礼にと云わんばかりに、黄金色に染められた綺麗なだし巻き卵をセンへと手渡していた。センも遠慮無く、そのだし巻き卵を変にお上品に一口を含ませると、実に美味しそうな笑顔を放出している。なんだこれ、いつもこうなのか。僕が寝てる間に、いつもこんな優雅な朝を迎えていたのか?良い加減腹が立ってきた僕はカイデンに向けて、傍らにあったナイフを投げ付けるように怒声を浴びせた。
「ちょっと、カイデン!聞いてます⁉︎」
「何やねん、さっきから騒々しいのぅ。」
なんでこの人は、この状況下でここまで怪訝そうな顔を出す事が出来るのだろう。むしろそんな顔をしたいのはこっちの方なんだけどな。僕はスゥーっと深呼吸をし、思いの丈をぶつけた。
「ビュッフェスタイルの清々しい朝食を楽しんでるとこ、申し訳無いですけどね!何ですか、これ!」
「朝飯やないかい。」
「なんで僕だけ、ご飯にたくあん、味噌汁と煮干しだけなんですか⁉︎」
そう、僕がここまで怒っていたのには並々ならぬ訳がある。僕の席に運ばれてきた料理といえば、艶々ともいえない固めの白米に薄黄色のガッチガチのたくあん。味噌がまだ半分しか溶け切っていない味噌汁に、申し訳程度の小皿に乗った三尾の煮干しだ。誰が見ても一目瞭然の、贔屓だらけの貧富の差。この差を見て、荒げない人間が何処にいるだろうか!さぁ、その理由をきっちり答えてもらおうか!と意気込んだのも束の間、彼はあろう事か重めの溜め息を溢す。その後、優雅にティーカップへと注がれたカフェオレをズズズっと一口啜った後に、こう語った。
「あんなぁ、イサムはん。自分、修行の身やで?心身を鍛える時は、まず食事のバランスとしてやなぁー。」
「こんな献立じゃ、給食のおばちゃんも黙ってないですって!バランスもクソも無いですよ、これッ‼︎というか僕の目の前でカフェオレを啜りながら、それ云うのだいぶエッグイですよ!」
さて皆さんにも是非問いたい。この場合、どっちが逆ギレと見えるだろうか。
「ドアホ、飯があるだけ有り難いと思いや!」
そう苦言を呈しながら、彼は別の皿に盛られていたベーコンエッグに手を伸ばす。くそ、このままで終わらせてなるもんか。何よりも折角白米があるなら、米が進む料理が食べたい。そう思った僕は握り締めた箸を伸ばし、槍のように勢い付けてベーコンエッグへと突撃した。
「・・・、ハッ!」
「なんの!」
するとカイデンはベーコンエッグが盛られた皿ごと持ち上げ、僕の箸を寸前で回避した。
「一個くらい良いじゃないですか!」
「じゃーかしいわ!自分がなんぼ積んでも、このベーコンエッグだけは死守するで!」
「ビュッフェスタイルなんですから、後で取りに行けば良いでしょ!弟子が可愛いと思わないんですか!」
「ドアホ!可愛いどころかストレスの塊やわ!見てみぃ、ワイの道着もストレスで真っ白やがな!」
「それは元からでしょーがッ!」
僕とカイデンはついに立ち上がり、歪み合うように互いの手を握り締めながら威嚇を放った。せめて一品くらい何か米の進み易いの寄越せよと、僕はその本能に従う一方だった。すると・・・。
ダンッ
「二人とも・・・、ご飯は静かに食べてください。」
それはまるで、響めき出したギャラリーに一喝する裁判官のような。はたまた、一向に静かにならない教室で教師が云い放った静かな怒声。それとは反比例した、ナイフをテーブルに叩き付ける音。僕とカイデンはその一言で、一気に血が抜かれたように青冷めてしまい瞬間的に硬直する。やがて、やんややんやと振り回していた腕たちは争う事を止め、すっかり項垂れた状態で僕らは萎縮してしまった。
『・・・・・・はい。』
何故かこの瞬間だけ、センが誰よりも怖く、誰にも逆らえないくらいの鬼のような形相に見えてしまったからだ。不思議と手足がピンと硬直してしまい、今彼女に逆らってはいけないのだと本能がそう諭していた。その後、彼女の一言により静かな朝食が続けられた。
・・・。
・・・・・・。
「つー訳や、イサムはん。」
「どういう訳ですか、カイデンさん。」
さて、場面は変わったところで僕らは例の演習場へと立ち、彼の指導の元の特訓が始まった。彼は徐に渡してきたのは四つのリストバンド。僕の有無を与える間も無く、それらを僕の両手首、両足首に装着させた。これがどうにも非常に重い。正姿勢を保つにも力が要る程だ。しっかりと腕に力を加えないと、まともに手が上がらない。ずっしりとくるその重みは地面に張りつこうとしていて、常にそれを抵抗し続けなければならないくらいの負荷がある。カイデンは腕を組みながら、はぁ~と軽めの溜め息を吐き溢し、「何を今更当たり前の事を。」とでも思っているような顔色だ。
「どうも何も特訓やんけ。」
「この手足に巻かれたこれで、何をしようと云うんですか?てか、滅茶苦茶重いんですけど・・・。」
「一つ五キロのウエイトやからなぁ。あとこれも羽織ってなぁ。」
そう云って道着の上から着込まされたのは、一着の防弾チョッキのような真っ黒なベスト。着込んだ瞬間に挟撃な負荷が肩に乗っかり、まるで子供に肩車された気分だ。ずっしりと重く締め付けられる。カイデンは鼻歌でも奏でるように、無理やり着せられたベストのチャックを徐に閉めた。 チャックを閉めたせいか、ベストの中に仕込まれた錘の重心が均等に伝わり始め、このベストの重さがより実感させられる。
「う・・・うげ・・・、なんで、すか・・・、これ・・・⁉︎」
「ワイの特性ウエイトベストやで。まぁ、ちょっとした防弾チョッキとでも思ってくれやー。それで大体十キロやから全部着込むと、三十キロくらいやな。」
「こ、こ、これで、何をするんですか・・・。」
両手に十キロ、両足にも十キロ、そしてこの防弾チョッキもまた十キロ。計三十キロ相当の負荷がのしかかる。重そうに見えるかって?皆まで云うな、無茶苦茶重いに決まってるだろッ!こんな状態じゃ、走るどころか歩くのも精一杯だ。彼の何かを企んでいるその眼差しは、嫌な予感しかしなかった。これもシックスセンスの働きだろうか。今度は何が来る・・・。何を僕にさせる気だ?ここまでの流れは、猿とけん玉、虎とけんけんぱ、その次が蛇と缶蹴り。振り返れば今までの特訓は全て、古くから慕われている子供達の遊びばかりだ。まぁ相手が子供だったら、どんなに楽だったか。しかし、ふんだんに盛り付けられたウエイトたちのせいか、次に起ころうとしているものに対し緊張を走らせていた。ニヤリと口角を上げたカイデンの微笑みが独特に気味が悪かった。
ぼむんッ
「ブルルルル・・・ッ。」
そうしてカイデンはお決まりの白煙を目の前で散布させると、煙の中から荒々しい鼻息が奇妙な低音を響かせていた。ガリガリと床を蹄で引っ掻き上げる音も聞こえる。やがて、その声の主は徐々に姿を現し始めた。四足歩行で、全体的な色味はどっしりとした焦茶色。頭頂部分から背中にかけてのさらりとした黒い立髪。豚・・・、いや鼻は似てるけど・・・、もっと獰猛で荒々しい奴だ。垂れ下がった豚の瞳と違って、ずっと鋭く尖っている。ずんぐりとした体型に見えるが、脚の付け根までガッシリと引き締まった筋肉。こんな動物、そんなのあいつしか思い浮かばない。
「い・・・、猪⁉︎」
「おう!この子は“イノ”ゆーねん。ほんで、今日のイサムはんの・・・、対戦相手や!」
そう、カイデンが呼び出したのは猪だった。今までの動物と比べて、明らかに様子が違う。こいつはずっと、こちらを敵視するように睨み付けている。肌身に感じるのは、野生の殺気。自分のテリトリーを踏み入れられた時に見せる攻撃の構えだ。初見でも分かる。こいつは、他とは違う。決してこいつと話し合いでどうとか、心を通わせれば等という甘っちょろい考えでどうこう収まる奴ではない。強い者こそ正義、絶対の地位であるというプライドがイノの自身のポテンシャルを刺激させている。それ故にこのイノと呼ばれた猪は他のペットたちと比べて、ずっと好戦的で獰猛な性格をしているように僕は見えた。
「は、はぁ・・・、そのイノと何をしようって云うんです?」
「せやな、この子とやってもらうんはー・・・・、鬼ごっこや!」
「・・・・・・はい?」
彼の一言に僕は耳を疑った。願わくば、今のをリプレイ再生でもう一度確認したいくらいだ。誰が、誰と鬼ごっこだって?僕が?この今にも僕を八つ裂きにして吹っ飛ばそうとしているこの猪と?武器も無しに?しかも三十キロだかっていうウエイトまで着けた状態で?頭の中は真っ白になるくらい疑問符が浮かび上がってるぞ。そんな頭を抱えたくなるくらいに困惑した僕に、目の前の小人師匠が投げ掛けた言葉といえばそれはそれは辛辣なものだった。
「なんべんも云わすなや、鬼ごっこやゆーとんのやッ‼︎」
「この猪と?・・・この全身にウエイト付けた状態で、ですか?・・・馬鹿ですか?」
「ドアホ‼︎師に向かって、馬鹿云うドアホがどこにおんねん!このドアホがッ‼︎」
「ここにいます。」
なんでこの人は、こちらの三倍罵倒を放つのだろうか。しかも槍のように指を差しながら。人の指を差してはいけませんと、お母さんに云われなかったのか!あ、でもこいつも妖怪か・・・。いかんいかん・・・、あまりの状況に僕もだいぶ混乱しているみたいだ。幾許かのわだかまりはあるが、それらを喉に押し込んだ。一呼吸を長めに吐き、気持ちを落ち着かせる。そうだ、どうせこの人は僕が何を云おうとやらせるんだろう。だったら目の前の与えられた事をやり切るしかない、僕はそう腹を括った。彼は僕が落ち着いたのを見計らうと、一つ頷く。
「まぁ、ルールは簡単や。この子から一分間吹っ飛ばされずに逃げ切ること……以上や!」
すると異空間に突如として現れたのは、大きなデジタル調のフォントで書かれた数字。六十と大きく表示されている。六十・・・、つまりは一分間を図る為のタイマーであり、恐らく合図とともにカウントは開始されるのだろうか。ゼロになるまで逃げ切る。それがこの特訓のルールという訳か。しかし今までよりも、ずっとシンプル過ぎるルールだ。それに極端に短い時間。正直、今まで特訓と比べて耳を疑うレベルだ。だから、僕は念を押すように問いただす事にした。
「一分だけで・・・、良いんですか?」
「あぁ、そうや。一分だけや・・・。もっとも・・・、イサムはんにとっては、いっちゃん長い一分になるんやろうけどな。」
「それなら、まぁ・・・、何とか・・・。」
彼は腕を組みながら、そう答えた。予めその言葉を、そう来るだろうと構えていたように。彼の顔色は、影を色濃くさせるような笑みとなり、そう物語っていた。
「ほぅ・・・、ええやんか!ほな、始めよかー。・・・ドンッ!」
ビィィィぃーーーーーーーーーーーーーー
試合開始を合図するような電子音が異空間を響き渡らせる。劈くような高音が耳に響くと、秒カウントで数字が刻まれる。くそ、いざやるとなると緊張してくるな・・・。そうだ、まずは目の前の事に集中しろ。相手は猪だ。猪突猛進という四字熟語があるくらいだ、その突進力は第一に警戒しなければならない。蹄で床を蹴り上げるイノ。既に奴は臨戦体勢だ。右か左か・・・、どちらかに避けてこちらも体勢を立て直しながら、動いていけば・・・。
「フゴッ‼︎」
独特な低音で響かせた鼻息を短く切ったと思った矢先、そのずんぐりとした身体で突進を繰り出す。
「え・・・、ちょ・・・ッ⁉︎」
ちょっと待てよ!予備動作無しかよ!あの体型で弾丸、というか大砲みたいな速度でイノはこちらに突っ込んできた。当然、その突進に遠慮なんてものは無い。例え、自分の身体が壊れてしまっても構わないという覇気と覚悟。そんな黒い肉の塊が僕の腹目掛けて、・・・突進する。
ズドンッ
「イサム!」
「油断したら、あかんでー。この子は気性がいっちゃん荒いもんでなー。・・・一秒でも気ぃ抜いたら、ぶっ飛ばされるで?」
何秒か宙に浮いた気がする・・・。なんだこれ・・・、ドラム缶を横から叩きつけるような衝撃は。これが猪の体当たり・・・。確かに、これは防弾チョッキが無いと骨だけじゃなく、内臓まで破裂してしまいそうだ。というかこっちは普段の体重に加えて、三十キロのウエイトも身に付けているんだぞ。なのにこの吹っ飛ばされよう・・・。多分、五メートルくらい吹っ飛ばされている・・・。これが、猪の突進。ははは、そりゃ猟師さんも苦戦する訳だ。気性が荒い?馬鹿か、あんな見境無く突っ込んでくる化け物相手を差し出したのはあんただろ!
「ぐ・・・、ぃてて・・・。ッつぅ~~~・・・。」
防弾チョッキを着ていても、腹周りに伝わる鈍い痛み。たったの一発で、朝食べた物が逆流してきそうだ。僕は無意識に飛び散った涎を垂らしながら、じんじんと痛みが走る腹を右手で抱えた。まだ足が震えてる・・・。呼吸が荒い・・・、あの一発で整えた物が全部ぶっ飛ばされた。くそ、そうだよな。あいつが、イノがただの猪の訳無いか。なんたって、あのカイデンのペットだ。普通な猪な訳が無い。今の攻撃で僕は確信していた。同時に過ぎる一つの証明。
シンプルな物ほど、難しいものは無い。
加えて残酷な事実はもう一つ。ふとカウントされた数字を見ると、そこに書かれていたのは五十七という数字。たった・・・、三秒で僕はノックアウトしてしまったのか。ここに訪れた時に比べれば、少しは肉体は強化された筈なのに。数字という現実が、目の前の光景を蝕み始める。
「カイデンさん・・・。流石にちょっと今回のって、イサムには厳しいんじゃ・・・。」
外野で見守るセンは、この一瞬の出来事に血の気が引くように目を震わせていた。
「まぁ、これぐらいで根を上げてたら、この先やっていけへんで?」
「そ、それはそうだけど・・・。」
横目の視界に映っていたのは、引き攣った表情を見せるセンの顔だった。
「アレでもあの子、昔は滅茶苦茶可愛いかってん。ほれ、子供の時の。」
するとカイデンは一枚の写真をどこかから取り出し、センへと渡した。残念ながら、ここからではどんな姿があの一枚の写真に映し出されているのか見えなかった。が、彼女の徐々に移り変わる表情を見ると、どんな姿が収められているのか何となく理解した。
「え・・・?え・・・⁉︎全然、違う!何これ、本当に可愛い!」
「せやろー、めっっっちゃプリチーで良ぇやろー?今ではこんな逞しくなってもうて。」
その光景はまるで、生まれたばかりの我が子の写真を見せるママ友たちの井戸端シーンに酷似する。もしくは、溺愛するペットを褒めちぎり合う光景ともいえようか。いずれにしても、逆に外野になってしまったこちらとしてはあまり良い気分では無いな。僕は未だ痛みが走る腹を抑えながら、ゆっくりと蹌踉めきながら立ち上がった。
「親バカ談義をかますのは、その辺にしといて下さいよ。」
「おう、生きとったかワレ。」
僕の言葉に反応したのか、辛辣なナイフを向けるようなカイデンの冷たい視線が向けられる。
「今から、イノを返り討ちにしてやりますよ!」
「ほう・・・、んなら、やれるもんならやってみぃや。」
カイデンは再び腕を組みながら北叟笑む。このままやられっぱなしは、僕はまだ若者なんでね。こんな見た目でも結構イライラするもんなんですよ。だから・・・、この特訓が終わったら。その写真、僕にも見せてくださいよね!・・・と言葉にはしかなかったが、何でか俄然やる気が湧いてきた。
・・・。
・・・・・・。
「げへッ!」
「おうおう、イサムはん!さっきの威勢はどこ行ったんや⁉︎彼此二十回目のトライで、戦績は二十連敗。んでもって、どれも一分どころか十秒も持っとらんやんけ!」
そう彼の云う通り、見事な連戦連敗っぷりである。どれも初手一発目の即死KO負け。更にどれもこれも十秒も持っていない。空間に表示された数字も五十の数字を未だ超える事が出来ていないのだ。それもその筈。ルールはこの猪から一分間逃げ切る事ではあるのだが、何せ足を引っ張っているのはコレだ。
「はぁ・・・、はぁ・・・、んな事云ったって・・・、こんなんじゃ、まともに動けない、で、すよッ‼︎」
全身に括り付けられた合計三十キロのウエイトたち。これが本来の素早さを著しく低下させてしまっている。横にステップする事だって、走るのは勿論の事。ジャンプで回避するなんて以ての外だ。次第に締め付けられたウエイトのせいで、異常なまでに全身の乳酸が溜まってきているのか間接にも鈍い痛みが走る。
「それも見事な吹っ飛ばされっぷりね・・・。人ってあんなにも漫画みたいに吹っ飛ぶのね。」
「イノにとって吹っ飛ばしやすい身体なんかもなぁー。」
「ちょっと!人を畑のカカシみたいに云わないで下さいよッ!」
全く酷い云われようだ。まるでネット公開処刑されているみたいだ。さっきからグサグサと躊躇無く刺してくる酷評コメントに胸が張り裂けそうだ。
「ほれほれー、根性見してみぃー!やりようは、いくらでもあるでー!」
ビィィィいいイイイイイイーーーーー
本日、二十一回目の電子ホイッスルが鳴り響く。つまり、猪との鬼ごっこがまたスタートした訳だ。
「ブルルル・・・ッ!」
相も変わらず、イノの闘争心は冷める事無くむしろ高まりつつある。予備動作無しの猛スピードで繰り出す突進。・・・と云う訳ではなく、実際二十回もアホみたいに吹っ飛ばされれば、流石に抗体は付いてきた。所謂、身体の慣れと云う奴だ。ほんの僅かだが、こいつにも突進する直前に独特の癖がある事がわかった。右に自分の尻を叩くように振ってから、イノは突進を始めるのだ。二十回目もやられては、流石にその動作は嫌でも見えてくる。問題はその後・・・。イノの突進は云うまでも無く、恐ろしく速い。まさに点火させた大砲そのもの。それを回避するのは、容易ではない。ましてや、身体中に括り付けられたウエイトで本来のポテンシャルを抑えられている。
だが、その僅かな予備動作を発見出来ただけでも、少しずつだが成果は表れている。迫り来る黒い弾丸。荒い鼻息を上げながら、真っ直ぐにこちらへ突っ込んでくるイノ。無理に重い身体を引っ張り上げるんじゃない・・・。ギリギリまで待って、最低限の動作で、その一瞬を・・・。当たる僅かな隙間を縫って、足に、膝に、瞬発を!あいつの攻撃をギリギリで回避するんだ!
「どわぁッ!」
僕は軸足となる右足はそのままに、左足を後ろへと逸らすように持っていった。右足を屈伸させて、回し蹴りをするように。そうする事で当たるポイントを狭める事が出来る筈。その刹那、衝突するギリギリのところでイノは僕の視界を初めて横切った。猛スピードで突進してきたイノと共に荒い風が、僕の道着や髪を靡かせる。最小限の回避で、漸くイノの突進を攻略した。あれだけのスピードだ。急な方向転換は出来ないだろうと踏んでいたが、ギリギリで躱わす事がどうやら正解のようだ。良し・・・、これなら行ける!
「おー、ようやっと躱したかー!けど、まだ油断したらあかんで!」
「ブルッ!」
イノは再び自分の尻を尻尾で弾き出す。すると、横切ったと思ったイノは、鋭利な角を付けた方向転換を見せた。絶妙な足捌きでスピードを殺す事なく、方向をぐるりと転換したと思えば、真っ直ぐこちらへと振り返ってきたのだ。その動作は僅か数コンマの世界。再びずんぐりとした黒い弾丸は、目標に向かって一直線となる。
「なっ⁉︎ちょ・・・、直角に曲がっ・・・だはーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!」
「あーーーーー・・・。」
危ない、なんて思った瞬間では時既に遅し。再び僕は盛大に吹っ飛ばされた訳だ。流石にもう間に合わないと本能的に思ったのか、何故か僕は両手で親指と人差し指と小指を立てながら宙を舞った。そして、重力に逆らう事無く床へと叩き付けられる。痛くない訳が無い、めちゃくちゃ痛い。受身なんて取って無いんだから。吹っ飛ばされる瞬間にセンの顔が見えたが、宛ら野球のフライボールでも見ているような眼差しだった。床へと真っ逆さまに叩き付けられて腰は痛いし、そもそもあいつの突進で腹も当然痛いし・・・。こんなの、本当に一分も逃げ切る事が出来るのか・・・?そう思いながら、息を切らしていた僕の傍らにカイデンが近寄る。空のようにどこまで高い天井を見上げながら呼吸を整えるが、そこに彼の声がひょこっと混じり始める。
「こいつのタックル、中々なもんやろー。けど、こいつにもし牙が残ってたら自分とっくに死んどるで?良かったなー、ワイがシノの牙を切っておいたから命拾いしたんやでー?」
彼の言葉に感化されたのか、はぁーと一振りの溜め息を吐きながら起き上がる。このウエイトさせ無ければ簡単に起き上がれるんだけど、痛みも相舞って常にハンマーでぐりぐりでされてる気分だ。
「あててて・・・、カイデンさん、これ脱いじゃダメなんですか⁉︎」
「特訓中は、駄目に決まっとるやろ!それは上手く使えや!」
「上手く・・・、上手くって、体が重くてまともに動けないのに・・・。」
「そや、上手く使うんや。逆境を、状況を、環境を・・・。その思考を回転させや!」
どういう事だ・・・。その含みのあるような云い回しは・・・。これを、このウエイトを上手く使え・・・?待て、こういう時こそ、俯瞰するんだ。得意だろ、垂イサム。お前の一番の取り柄でもある筈だ。状況を今一度、整理するんだ。僕に身に付けられたのは両手両足に五キロずつのウエイトに、道着の上に着せられた十キロの防弾チョッキ。イノは猛スピードで突進してくる。しかも当たるまで方向転換してくる、超がついても過言では無い追尾機能付き。だが、直前の回避には流石に反応する事は出来ない。躱してから数秒には、とんでもない速度で向きを変えて再び突進してくる。それを可能としているのは、猪本来のポテンシャルあってのスキルでもあるだろう。速度を殺す事なく、独特なバネを利用して。
バネ・・・?そうだ、あの方向転換には速度を殺さないようにトップスピードをなるべく維持させている。という事は・・・、そうする為には必ず・・・。見えてきた、兆しが!イノを欺く為の攻略法が!だがそれを成立させる為には、一つ確認しなければならない事がある。むしろ、これが無効なら正直打開策は無い。僕は覚悟を決めた眼差しでカイデンを睨み付け、それでも平常心であるように装いながら訊いた。
「あの・・・、一つ良いですか?提案なんですけど・・・。」
「なんや?」
「一分耐えるって話、もしイノを倒したら一分待つ必要も無いですよね?」
僕の問いに対し、彼は一瞬目の色が変わった。そう確信に近付いた瞬間でもある。限りなく空に似た彼の青い瞳に、曇天が掛かったような陰りが覆い被さる。そうして鉛のように重くなった唇からは、また一つ確信へと踏み込む。
「ほぅ・・・、云うやんけ。せや、ルール上はそれで構へんで。」
「なら、やりようはまだあるようですね!」
「さっきからそう云うとるやろ!若いうちに試せるもんは試しとき!」
それなら、良かった。その答えは、何よりも理想的な答えだからだ・・・。
ビィィイイイイーーーーーーーー
「ブルルルル!」
昂る闘争心は本能のままに、イノは蹄で床を何度も引っ掻き上げていた。もう何度も僕に向かって突進してきているというのに、全くその疲れを感じさせない。動物の体力とは本当に末恐ろしい。対する僕はウエイトを付けられているとはいえ既にバテバテだ。さて、こいつを攻略する為の対策だが・・・。僕は一度防弾チョッキを脱ぎ、道着も脱いだ。そうして肌着の上に防弾チョッキを着込み、それから道着を羽織るように調整した。敢えて、道着の帯は緩めにした上で。この順番、この着方じゃないと対策を練る事は出来ない。相変わらず身体はずっしりと重いが、これなら何とか・・・。
「さぁ、来いよ・・・。」
僕は軽く足を開き、前襟を軽く摘んだ状態で構えた。
「ほう・・・、真っ向勝負かいな!どんな策、見せる気や?」
ガリッ
イノの癖でもある尻尾を右に振るい、勢い良く床を蹴り上げる。荒い鼻息を鳴らしながらの突進攻撃。もう嫌になるくらい何回も見た光景だ。その弾丸は数秒待たずして、僕の体目掛けて突っ込んでくる。さっきのような寸前で躱わすといった作戦は、恐らくもう効かないだろう。猪だって馬鹿じゃない。猪が特に秀でている力は身体の造りといったポテンシャルだけではない、正確な適応能力が秀でているのが最も厄介な習性なのだ。だから、先程と同様の回避方法ではすぐに読まれてしまい、呆気なく僕の身体をぶっ飛ばしてしまう事だろう。
「イサム!」
猛スピードで突っ込んでくる猪に対し、僕はまだ手を打っていない事にセンの口から焦りが漏れていた。まだだ。まだ少し、もう少し近付いてこい・・・。絶妙なタイミングまで待たないと、これも効果が無いんだ。猪は構造上、視界は広く出来ていても高低差については短い方だ。だから、近過ぎても遠過ぎても駄目。
「大丈夫ッ!」
僕の眼と完全に交差するその瞬間こそが、絶好のタイミングなんだ。猛々しい四脚の音は近付く。本当に人をぶっ飛ばす事に躊躇の無い目だな、こいつは。だが、お前と目が合ったって事は、そういう事・・・。今こそが好機なんだ。僕は予め緩めておいた帯を脱げ捨て、勢い良く道着を振り回すように脱ぐ。
「こう・・・するのさッ!」
バササ・・・ッ
やってる事は至ってシンプル。両腕を出来るだけ大きく広げ、ピンと張り合わせた凧のように道着を広げた。なんだかんだ云って、実はこれが一番効果的。自分を相手よりも大きく見せる事。この道着も身体の一部であると認識させるのが、こういった野生動物には効果覿面なのだ。
「ブルッ⁉︎」
「道着を広げた⁉︎」
「ひょっとして、自分を大きく見せる為に?」
「恐らくそうやろな。猪は三百十度と視野があっても、視力は弱い方や。色覚だって、当然人間とはちゃう。人間とは違い、曖昧な色覚では道着もイサムはんの身体の一部だと誤認を与える・・・。そうなってまうと・・・。突然、相手が不自然に大きくなってまえば一瞬とはいえ、百戦錬磨のイノやって・・・、たじろいでまう!」
やはりそうか・・・。猪の色覚は人間とは異なるタイプで間違いなさそうだ。それでも苦手な色味という訳では無いから、直接的な緊急回避には役立ちそうもないが・・・、それで充分だ。僕の身体を大きく見せれれば、それで良い。その錯覚が第一の隙になるのだから。
「ほッ!」
「躱したッ!イサムがまた突進を躱したわッ!」
その一瞬があれば大丈夫。今まで一切の躊躇が無かった突進にブレーキが掛かれば、直線的な突進だって躱せる。僕は先程と同様に、右足だけを後ろへ蹴り上げるように捻らせ、最小限の動きでイノの攻撃を掻い潜った。
「まだやッ‼︎問題はこっからや!イノの突進は、簡単には終わらへん!」
「ブルル・・・‼︎」
そう、カイデンの云う通りイノ攻撃はまだ終わっちゃいない。むしろ、ここからですらある。次に奴が繰り出すのは、スピードを落とさず直角に曲がる旋回。怯むな・・・、後ろへ下がるな、進むなら前・・・。横に避ける必要は無い。それでは永遠にあいつの突進攻撃を止める事なんて出来ない。だから、前へ進むんだ、この一歩を。僕は通り過ぎていったイノを追いかけるように、重い足取りを踏ん張りながらも駆け出した。
「えぇ・・・、だから旋回し始めるこの瞬間が、最大の隙なんです!」
猛進する猪だって、ちゃんと弱点はある。そのトップスピードを維持する為には旋回を行う為の飛距離と時間が要る。イノは尻尾を叩き旋回の準備を始める。方向を百八十度反転させ、そこに生まれた僅かな遠心力も突進力へと増加させる。だが、それがお前の・・・、第二の隙だったんだ・・・ッ!
「どりやァアアあああああああああああああああああああああああーーーーーーーーッ‼︎」
僕は両手を交差させるように握り込み、ハンマーを振り下ろすように見立てた。ただ振り下ろすのでは衝撃は足りない。いくら合計十キロのウエイトがあったとしても決定打にはならないだろう。だから僕は、ハンマー投げの要領で体全体を捻りながら回転を加えながら前へと進む。そうして出来た遠心力は、今にも手首ごと持ってくれてしまいそうだ。勢いを加えた二回転からの振り翳し。イノも旋回が終わり、トップスピードを維持した突進が来た。だが、もう遅い・・・!こっちは既に射程圏内だ。狙うの一つ・・・。猪にとって、最も皮膚の薄いところ・・・、眉間だ!眉間目掛けて、握り締めた両手を振り下ろす。
ドゴォォオォォッ
正直どれだけのパワーが出るかなんて検討は付かない、謂わば一発本番だ。だがあれだけの突進があれば逆に利用出来る筈と思った。だから、これを思いついた時、迷いは無かった。渾身の一撃となった僕の攻撃は、見事なほどにイノの眉間に命中したようで、火花のように散る衝撃はこちらに軍配が上がった。
「なっ・・・⁉︎あ、あいつ、両腕に着けたウエイトでイノの眉間をブチ込みやがった⁉︎」
「フゴ・・・、ご・・・、ご・・・。きゅぅーーーーー。」
イノはその場に倒れ込み、どうやらさっきの一撃で気を失ったようだ。成程、逆境や状況、そして環境を利用するか・・・。これが正解はわからないけど、なんとなったみたいだ。
「はぁ・・・、はぁ、はぁ・・・、これで、一分も待つ必要、無いです・・・、よね?」
「上出来や、イサムはん。まさか、一分耐えるんやなく、本当にイノを打ち負かすとは思わんかったで。」
「・・・押忍!」
カイデンの言葉に安堵した僕は、ふっと気が緩みその場で倒れ込んでしまった。あ、これダメな奴だ。身体中が悲鳴を上げてるぞ。四肢だけでなく身体中の細胞からクレームの嵐だ。この炎上を鎮火させるには、少し時間が掛かりそうだな・・・。
「ほなら、今日はもう休みや。続きはまた明日や。センちゃん、ちょいちょい。」
「は、はい!」
「どうせ、この木偶の坊はもう動けへんやろうから、布団のとこまでおぶったってや。」
そうカイデンがセンに指示すると、ずっと付けられていた手首や足首のウエイトが外れ、防弾チョッキを脱がされる。今まで圧迫されるように締め付けられたものがなくなると、春一番のような開放的な風が当たった気がした。多分実際はそんな風は来ていないんだろうけれど、それだけ漸く呪縛から抜け出せたこの開放感が堪らなかった。あぁ、自分の体ってこんなに軽いんだなぁと。あとはこの筋肉痛が無ければ、どれだけ心地良い物か・・・。とまぁ、僕は見ての通り全く動く事ができない訳で、彼女は両手で僕の身体を抱き抱えた。そう、おんぶでもだっこでもなく。お姫様だっこで・・・。
「ごめん、セン・・・。なんかいつもやってくれてるみたいで。」
疲れがピークに達してしまったのか、もはや僕には彼女に今の現状をつっこむ気力は無かった。
「良いよ、頑張ったねイサム。」
僕は記憶しているのはここまでで、そこから先は息を引き取ったように眠りに付いたらしい。最後に見えたのは、黒羽の少女による視界いっぱいに広がる朝日に酷似した仄かに眩しい笑顔だった。あー、そういえば・・・イノの子供の時の写真まだ見てないや・・・。後でちゃんと見せて貰いますからね、カイデンさん。




