濁ったドブの底から
ドブって浅いのに、眺めているとそのままどこまでも引きずり込まれるような錯覚にとらわれますね。一方海も、浅瀬でも高いところから見るとそのまま落ちていきそうなめまいがありますね。
まとめると高いところから下を見るのが駄目なのでしょうか。
そんなことはさておき、帰るころには弓削に戻っていた。何、どのくらい変わってたかって?知らないよ。ところで何だか疲れた顔してるね。
「じゃあやっぱり、俺の時間は減っていってるのか……あとどのくらい、俺は俺で……弓削壮二でいられるんだろう?」
「壮二なら適合率が悪いから一年借りて返すって言ってたわよ」
弓削が自転車ごとどぶに落ちた。せっかく教えてやったのに運のない奴だ。
「何してるの?どんくさい。どんくさすぎて引くわ」
「ほ……ほっとけ」
わかった、ほっといて帰る。
「やめてくれ!ほっとかないで引き上げてくれ!」
仕方ないなあもう、と当たり前のように触手を差し出しかけて引っ込める。ヒトの目には映らない速度だから気づかれてはいないだろうが、当たり前のように触手を使うようになってしまったというのはどうにもつらい。
いっそのこと人に会わない生活でもできればいいのだがそういうわけにもいかない。
あれ、何でダメなんだっけ?
「助かったぜ……まさしくゴリラの細腕は一家に一台ものだな」
「いいわ、もう一回落ちてなさい」
うそだよ!弓削の顔は引き攣っていて笑顔に見えた。せっかく助かったのに失礼な奴だ。
そればかりか自転車もサルベージ済みで、ところどころ泥にまみれながら路肩に停めてある。もっと感謝してくれても罰は当たるまい。
今は近くに落ちていた竹ざおでカバンを探している。もちろんただの竹ざおではない。中に一本探査用の触手を通していて、レーダーとして機能する。
えーとザリガニ、ザリガニ、イトミミズ、ナマズ、イトミミズ、メダカ、メダカ、ヒメダカ、メダカ、ザリガニ、オタマジャクシ(トノサマのメス)、スーパーの袋……ヤダ汚い。
ポテチの袋とか捨てたの誰よ。しかも底の方に残ってるんだけどチップス。もったいないことするなあ。
ミミズ、イトミミズ、藻、布、人肉と人骨の塊(おそらく40代男性)、メダカ、合皮。これだ。手を突っ込んで引き上げる。
袖はめくり上げているから汚れた水が直接肌に触れる。濁り切った水は粘性を帯びているようで不快な感覚だ。
「弓削、中身あるかちゃんと確認して」
「お、おう………」カバンの中身にはあまり水が染みていなかったようだ。「ある。ありがとう」
どういたしまして。両手の皮膚を軽く振動させて水気を飛ばす。あとは袖を戻すだけ。自分の意志で動かせるものがずいぶん増えた。
嫌悪感がないわけではない……が、慣れてきてしまった。本格的に神話生物として身の振り方を考えたほうがよさそうだ。
だってもう帰るところなんかないもん。
「よかったよなあ。それにしてもほんとによかった」
「何が?」
しょぼしょぼと背を丸めたような姿勢で歩く弓削の後ろ姿が不意に呟くので、つい反応してしまった。ぼとぼとと彼が歩いた後に濡れた道が歪んだ線になっている。
「だって俺たち、帰れるんだろ?誰にも、乗り移られて利用されたりせず、ちゃんと家に帰って、今まで通り……前まで通りやっていけるんだろ。ま、俺にはどっちでもあまり関係ないんだけど、お前は友達と一緒に楽しくやっていけるんだろ」
何も言えなかった。
一区切りついたのに、切れたのに。人間辞めようかと思ってる、なんて誰がどうやって切り出す?
といっても私はどうにか切り出そうとしたのだが、どうしてかなんて私にもわからないから聞かないでほしいのだが、その前に坂を登ってしまった。
その先にはお兄さんが、魚兄さんがいる。もうむやみに口はきけない。この人は相打ちになったとしても私を止めるだろう。
もちろん私は神社の下に眠る神などとはかかわりのない、いやあるか、かかわり。
似たところのない女子高生なのであって、多少触手を操るだけの少女なのであって、彼を害するような性能はないはずなのだが……ないと思いたいのだが、敬一さんの側ではそうは思っていないらしい。
買いかぶりこの上ない。何枚被ってるんだ。




