兄が聞く耳を持たない件
「何の話だったの。服は?自転車も」
予想してはいた問いかけに、俺はつい反射的に顔を背けた。
兄さんの声に咎めるような響きがあったからじゃない。過保護な兄だが友人関係というものに口を出したことはついぞなかった。
ああ、好きにすればいいんじゃないの、といつものすかした顔で言うだけだった。それが最近では今日学校で誰と話したか内容はどうだなどと質問攻めにしてくる。
同時においしい兵糧攻めも実行されているから俺の口も緩くなるってわけだ――くそ、卑怯な。
で、もちろんそのたびに俺は衣川が如何にいい奴で、面白い奴で、さらには可愛い少女であるかについて舌先三寸ならぬ言わば胸内三尺からの巧言令色を尽くして説明しているわけなんだが、兄さんの態度は一向に軟化しない。
どうしたってこう、どうしてもこう、衣川のことだけは良くない意味で気にかけている。
「自転車ごとドブに落ちちまったんだよ。んで引き上げてもらった。それだけだ」
「本当に?何もされてない?」
本当だよ。朝日が西から登ったって本当だ。ここまで言って兄さんはやっと納得したらしく大きく深呼吸した。ここまで一切呼吸せずに喋っていたわけだ。息が止まるって……どんだけ事態が重かったんだ。そしてすごい肺活量だな。
家に戻ったら義姉さんがぱたぱた左手を振って迎えてくれた。ちゃぶ台の脚越しに見える。爪が桜色で、肌が白い奇麗な手だ。床から垂直な角度に伸びた手首が右へ20度曲がって、襖の隙間から突き出ている。
あれって角度的にどうなんだ?寝てんのか?手だけを上げているのか?
「壮ちゃん、あの子にはあまり関わっちゃだめだよ」
うわ、兄さんの睫毛長い!とんちんかんなことを言ってしまって口を覆う。眉間にしわ寄せまくってるけど、兄さん、あんたも悪いぜ。だって美形だし顔が近すぎる。その滑るような美肌は健全な青少年には刺激がきついぜ。
兄さんの左手は俺の背後の壁にある。つまりは壁ドンなのだが、衣川じゃないほうの隣人に配慮して音は立っていない。
あっちに住んでるおじいちゃん、満月になると突然奇声を上げたり泣き出したり忙しいんだよな。普段は仏頂面であまり喋らないのに。関わりたくねーと思うのは兄さんだって同じだ。だからいうなれば静かなるドン。
息がちょっと魚臭いが、魚料理好きだもんな。きっと俺も似たような口臭になっているだろうし、生臭いって言うほどでもない。
「……壮ちゃん、僕の話聞いて?あれはもうほとんど人間じゃない。これ以上関わると壮ちゃんまで大変なことになるんだ」
「言うに事欠いてあれかよ、この二枚目……アシンメトリー似合うし具体的な論拠がない割に説得力高えんだよ!」
責めないといけねーのに褒めるとこしかねーのは許してくれ。これでも自慢の兄なんだ。あのミスカトニック大学を卒業したうえ現在そこの教授なんだぜ?自慢するなって方が無理なんだい、無理難題。
俺の無駄口はいつものことだから、兄さんは自分は真面目な話をしているのだなんてことは言わなかった。
「論拠は示せない。それを言ったらどのみち君はこち……向こう側に来てしまう。闇があることは知ってもいい。でもその奥に何があるかは知ってはいけないんだ。ね……僕と来るのも勧めない、家族を置いて行っちゃだめだ。絶対に後悔する」
まるで置いて行ったことがあるみたいな言い方に引っかからなかった。だって俺は置いて行かれたんだ。
兄さんがアメリカ行きを決めた時に、ついていきたかったのに、親と兄さんの猛反対にあって一緒に行けなかった。両親の反対はある意味わかってた。でも兄さんに拒絶されたのは幼心に衝撃だった。
別な意味があるなんて考えないし、考える奴はおかしい。




