戻れるものなら
ハッピーバレンタイン。バレンタインってチョコレート作ったり包装を買ってきたり、忙しいですな。
壮二はグラウンドからこちらへ視線を戻した。
「わからんこともない」
「え?」
「あれは海で遭うたのじゃろう。そう、本物の兄が中学校を卒業したころに、海で。本物はそこで食われた」
見てきたように壮二は語る。私の目を見つめる。
「食うたものはあの魚。足の先から徐々に。最後に最も美味な脳を。それで魚は思い出したのじゃ」
あんなものが、むかしじぶんにもあったなあ、と。そこだけ敬一さんの口調をまねて見せた。
息を吸い込むときの音。気づけば声も立てずに聞き入っていた。
「魚の認識は少しばかり古かった。長男は戻らねばならぬと思った。かつて捨てたのにじゃ。本当は戻りたかったのかもしれん。あるいは罪悪感か、そこまでは儂といえど理解できんし曲解できん……つまり解釈じゃな。ゆえに魚はヒトに化けた」
難しいことではなかったと思うよ。心なしか投げやりだ。だってあれはヒトだったのだから。ありがちな衝撃の事実じゃよ。
「完璧であったよ、あれの擬態は。ヒトにはまず見抜けぬが、せねばならん無理も最小限じゃ。最適な落としどころというやつか。同格かそれ以上の相手には見破られるが、そんな相手には滅多に会わん。会ったとしても人間に興味などないから無視する。今回は運が悪かったのじゃな……体が合わぬわけじゃ」
弓削の体は変質か何かしているのだろうか。じゃあ依代はどうするの?
「一年借りて返すかの。来年の祭りで新しい体を探す。体を張って牽制に出た魚も哀れじゃし、合わぬ体で無理に行動することもあるまいて」
「私もめちゃくちゃそうして欲しいわね。これ、外せるの?」
ほとんど絶望的に私は言った。指先から形状、能力まで調整できるようになった触手を伸ばして。
「無理じゃ。完全に溶け合っておる……もう、食ったのだろう」
なんでわかるのよ。
あれは五月の終わりだった。事件というには貧弱で、危機というにはお粗末な出来事。
気が緩んでいたっていうのは否めないけど、油断が招いた事態なんて言うのはいくら何でも私に厳しすぎるだろう。だって若干15のJKですよ?私。
家の近くに見晴らしのいいところを見つけたって話はしたと思う。あの日も私はあそこへ向かうべく歩いていたのだ。さかみちー、とんねるー。薄暗くてろくに足元も見えないのは前に来た通りだ。
……いや、見えてるんですけど。見えちゃってますけど、足元。あと廃材の後ろに隠れてこっちをうかがっている灰色の何かが見えるんですけど。隠れてるんですよね?見えてますよ。
思えばここで悲鳴でも上げて逃げるか気づかないふりで通り過ぎればよかったのだ。何をボーっと見つめていたのか。そういうことするから巻き込まれるんだ、依。反省しろ。
灰色の奴はおろかにも私をカモだと認識した。馬鹿だ。客観的に見ても馬鹿だ。戦艦を餌だと思って食いつく小魚のようである。いっそ哀れですらあったが、仕方ない。
飛び掛かられた私は悲鳴を上げて手を振り回した。
結果として灰色のそれを片手で掴んでトンネルの壁に叩きつけた。一時的に意識を失ったそれを引き寄せて引き裂いた。こっちは意識して。とどめ刺さないと怖いじゃない。
それで哀れな襲撃者は動かなくなった。ていうか半分くらい挽肉だった。しばらく前に洒落で作った攻撃用形態の触手が首から生えていたが使いもしなかった。
「何でそれで食うてしまうのかのう」
だってちょうど三時だったから。お腹すく時間帯だから。ちょっとつまみたくなるじゃん。壮二は引き気味だった。
「もう一種の天才かもしれん。いっそ神獣にでもなるか、人間」
「それもいいかも。今だってほとんど人間じゃないみたいなもんだし。引き留めるものがないと人間ってどこまでも落ちるのね」
「違うな。ぬしを引き留めるものではなく、ぬしを引き留める可能性がありぬしが引き留められたいものじゃろう」
どっちだって同じじゃない。見透かされたことを打ち消すように言った。親戚縁者みな、いなくなっているのだ。
叔母さんは……触手じゃないかもしれないけど、神社の傘下だ。多分見た目ほど人間していない。引き留める側ではない。
弓削。引き留められたってそんなにうれしくないな。誠一さんは……引き留めてほしくはあるけど引き留めてはくれまい。けしからんもっとやれの人だ。
もうどうなったっていいんじゃない?
「ていうか、ああいうのって何なの?神話生物じゃなさそうだけど」
「しんわせいぶつ……?妖怪じゃ。儂はとりあえず、そう呼ぶことにしている。たまに犯罪の原因になったりとかするのう。いなくても人は罪を犯すが」
「いてもいなくても同じって言外に言ってるわね」
一番気になるのはぷちっと殺ってしまってよかったのか否かだ。
「蚊の一匹を叩き潰したところで蚊が絶滅するわけではないじゃろう。依代だって使ったところでそれで滅ぶ、ではないから使っているのじゃ」
「人間としては嬉しい発言なのかしら?」
「さあな。個人にとっては滅んだ方が幸せかもしれんぞ」
答えられなかった。気の利いたことは何も。いじわるなことを言ったな、と壮二は微笑んでグラウンドへ向き直った。気だるげに柵によりかかっているようで、背中はピシッと伸びている。不思議な姿勢だった。
あ、背丈の問題か。
柵が高いよな、ここの学校。昔飛び降り自殺か何かあったのかな。確か弓削は猫背状態で160センチあったはずだ。それが壮二効果で伸びてこれだと少なくとも150センチ以上は柵があるはずだ。異常である。
不思議だから見つめていたら、どうした、儂の背を抱きたいのか、などとファーストなレディにはセクハラ認定されそうな発言をされた。ただそう言って想像するような不快な印象を与えるような語調ではなかった。
単なる冗句である。蹴りたいのよ、と私も冗句で返した。
「ところで、しんわせいぶつとは何じゃ?」
「ググりなさい。説明が面倒だわ」




