止まらない時計
「がんばるよー」
そう言って腕まくり、キッチンにこもった兄とは違い、弓削――もちろん弟の方だ――は座り込んだまま疲れた顔でちゃぶ台の隅に顎を載せていた。地ベタリアンって一時言ったっけ。あんな感じ。
「ねえ弓削。お兄さんっていつもあんな感じ?」
「おう、いつでもどこでもマッドサイエンティストだ。中学卒業したあたりから壮ちゃん壮ちゃんって呼んでくる……くそう、自分が大人の階段上ったからって子ども扱いかよ」
そう、としか言えなかった。やっぱり気づいてないのかな。
あれ、私だけ?だとしたら考えられるのは触手の影響だが困ったな。あの雰囲気が嫌じゃないとはいえ違和は違和だ。平仮名で一字違うだけだ。漢字は文字数が違う。
それは巌のように厳然としてそこに居座る。触手の機能、デチューンとかできないわけ?
「無理だのう。根性で無視せよ」
壮二。声には驚きと困惑をあまり出さないようにしたつもりだ。心を読み取られたにしてはいい反応だと思う。いや、心を読み取られるのにいい反応とかあるのか?
「出てきていいの?」
「ハッ、あれもこちら側の生き物ではないか」
「やっぱりそうなの?魚……じゃないかと思うんだけど」
好奇心旺盛だな、と壮二が顔を上げた。「いかにも魚じゃ。我らとは違う原理ではあるがのう、人に擬態しておる」
「何で――」
私が質問を重ねようとした瞬間、切り替わった。弓削は、あれ、顔上げたっけ、と一瞬いぶかしげに思っただろう。
ちょうど敬一さんが入ってきた。両手に一つずつお盆。お盆にはクラムチャウダーと白ご飯、さらには刺身までを満載している。
クラムチャウダーって。刺身って。同属と違いますの。しかもその組み合わせ何なの。お盆の上が大戦略だけどバランス感覚どうなってるの。側線でもあるの。
「ごはんだよー」
感情の読めない目で私たちを一瞥すると、敬一さんはちゃぶ台に食事の準備をした。ばらすな、と言っているのが分かる。
「そうちゃん、あごがじゃま。いただきますするよ」
敬一さんは、魚。魚なのをばらすな、と。言ってしまえばそれは脅迫なのだろうけれど、恐ろしいとは感じない。むしろ恐れているのは敬一さんの方だ。
真実の暴露を恐れているとかじゃなくて、弓削に知られるのを恐れているのでもなくて、私を恐れている。どうしてかはわからない。考えつきはするが、本当かどうかわからない。
「そうだ、そうちゃん。ぼくね、しばらくここにとまるからよろしく」
「嘘だろ!?帰ってくれ!頼むよ!俺のあこがれ一人暮らし計画が!」
「ほかんけいかくにしてあげるよ。きかんはみてい」
おいしかった。料理の話だ。いくら私だって人の兄を取って食ったりしないんだから怯えないでくれないか。気分が悪い。居心地も悪かったからご相伴にあずかったのちさっさと帰った。
あれは何だったのだろう。答えはわかりきっているだろうって?そんなこともないんだな。
「じゃから魚だと言うておる」
屋上からグラウンドを見下ろしながら壮二が言った。昨日の雨でまだ湿っている。そうだ、もう六月なんだ。敬一さんが弟の家から撤退しないまま二か月が経過した。
今日は女子がハンドボールだ。男子は体育館でバスケとボールか何かやってると思う。
「害はないが益もない、焼くとうまいあの魚じゃ」
そういえば料理もうまいのう。やだー当たり前じゃないですかー。
「だからどういうことなの。何で魚が壮二のお兄さんのふりしてるのよ」
要領を得ないから思わず問い詰めたけどそんなこと壮二にはわからないのではないだろうか。聞いてから思った。だが出た言葉は取り消せない。取り消せないで三時間目の屋上を泳ぐ。
人魚のように。




