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聖域

 

 落ちている。

 その感覚だけがあった。


 上下が分からない。

 空間そのものが捻じれている。


 瓦礫の街。


 黒煙。


 ハウンド。


 ワイルドハント。


 全てが紫色の極光へ飲み込まれていく。


 激しい耳鳴り、頭痛、そして視界のノイズ。


 レイヴンは左眼を押さえた。


「ッ……!」


 数瞬先を見る未来視が暴走していた。

 知らない未来の断片が流れ込んでくる。


 赤い空。


 巨大な樹木。


 黒狼。


 謎の集団。


 断片化した未来が脳を焼く。


「隊長!!」


 レイスの声。

 だが距離感がおかしい。


 近いのか遠いのか分からない。世界そのものが歪んでいた。


 そして。


 身体が何かへ叩きつけられた。


 轟音。


 木々が砕ける。


 肺の空気が押し出された。


「がッ……!」


 湿った土の感触。


 葉の匂い。


 数秒遅れて、周囲へ何かが墜落する音が連続した。


 レイヴンは荒い呼吸のまま顔を上げた。


 そこは森だった。

 だが、知っている森ではない。


 木が巨大すぎる。

 幹幅だけで数十メートルある。枝葉は空を覆い隠し、淡く発光していた。


 空気中には、粒子のような淡い光が漂っている。


「……おい、生きてるか」


 低い声。

 バスティオンだった。


 泥にまみれながら立ち上がる。その右腕の機械化部位からは白煙が漏れていた。


「くそ……」


 義手装甲の一部が赤熱している。

 バンカーフィストは完全に機能を停止していた。


「オーバーヒートかよ……最悪だ」


 少し離れた場所で、レイスが咳き込む。


「ここは……どこ……?」


 アヴェンジャーは既に起き上がっていた。

 高周波ブレードを抜き、片手に銃を握りしめて、無言で周囲を警戒している。


 グリードだけは、倒木へ寄りかかったまま空を見ていた。


「…...これも運命なのかな」


 普段の眠たげな声は一転して、僅かな驚愕に染まっている。


 その言葉に、レイヴンだけが僅かに反応した。


「知っているのか」


「......まあね」


 グリードは肩を竦める。

 いつもの気怠げな態度。

 だが、その視線だけは森の奥を警戒していた。


 レイヴンがゆっくり立ち上がる。


 左眼の警鐘はまだ消えない。嫌な予感が鼓動を逸らせ続けている。


「……空」


 レイスの呟きに、全員が視線を上げた。


 木々の隙間。


 そこに見える空は、元の世界と明らかに違う。

 青ではない、不気味なまでの赤色。

 誰もすぐには言葉を出せない。理解が追いつかなかった。


 戦場じゃない。


 別の国でもない。


 ここは根本から違う。


「異世界ってやつか?」


 バスティオンが乾いた笑みを漏らす。

 かつての日本に存在した娯楽媒体に、異世界を題材にした書き物が多数存在したらしい。


「笑えないね、それ」


 グリードがぼそりと返した。


 その時だった。


 レイヴンの左眼が一際激しく脈動し、そして視えた。


 血飛沫。


 巨大な鋭爪。


 黒い影。


「──散れ!!」


 レイヴンが叫ぶ。


 直後、森が爆ぜた。

 巨大な黒影が木々を薙ぎ倒しながら飛び出す。


 狼だ。だが異常だった。

 全長は四メートルをゆうに超えている。


 禍々しい漆黒の体毛は逆立ち、前額部から伸びる一本角は明らかに既知の狼とは異なる。


 その黒い角から、紫色の粒子が絶えず漏れ出し、その身を覆っている。

 まるで、ノイズのように存在がボヤけているようだ。


 グリードの目が見開かれた。


「……ガルム?」


 掠れた声だった。


 全員の視線が向く。


「知ってんのか、あれ」


 バスティオンが問う。だがグリードは答えない。

 ただ、黒い巨狼を見つめていた。


 獣が低く唸ると、空気が震えた。


 それだけで、周囲の空気が重くなる。

 濃密な殺気が、大瀑布のように押しかかる。


 頭の奥がざらつくような不快感。


 ハウンドとは違う、新たなる脅威が無慈悲にも迫る。


「なんだよ……あれ……」


 バスティオンが息を呑む。


 次の瞬間、ガルムが跳んだ。


 地面が砕ける。


 およそ巨体とは思えない速度だ。


「レイス、右に避けろ!!」


 レイスが反射的に右に転がる。

 直後、元いた場所を爪が粉砕した。


 轟音。


 土砂が吹き飛ぶ。


「っ……!?」


「くそッ!前出るぞ!!」


 バスティオンが突撃銃剣を構える。


 発砲。


 連続する銃声が森へ響き、銃弾がガルムの外殻へ叩き込まれる。

 黒い血が舞い、大地を染める。


 だが止まらない。


「硬ぇなクソが!」


 ガルムが咆哮し、空間が軋んだ。


 枝葉が黒く変色する。


 周囲を漂っていた淡い光が、一斉に紫黒へ濁った。


 嫌なノイズが耳へ刺さる。


「なんだよこれ……」


 バスティオンが顔をしかめる。


 レイヴンの未来視が新たな警鐘を鳴らす。


 絶望は、終わらない。


「上だ!!」


 レイヴンが叫んだ直後、第二の影が樹上から落下した。


 猿に似た体躯。

 細長い四肢。

 だが、顔がない。


 目も。


 鼻も。


 口すら存在しない。


 滑らかな黒い皮膚だけが、頭部を覆っていた。


 なのに、見られている。


 本能がそう理解した。


「ッ――!」


 アヴェンジャーが即座に迎撃する。


 銀閃。


 高周波ブレードが空気を裂くに留まる。


 猿は空中で軌道を変えたのだ。

 ありえない動きだ。

 重力を無視したように巨木を移動し続けている。


「ありえない……」


 レイスが驚愕を吐露する。


 猿は木々を高速移動し、視界から消えると、次の瞬間には別の枝にいる。あまりにも速すぎる。


 レイスが狙撃銃を構える。


挿絵(By みてみん)


 発砲。


 だが掠りもしない。

 残弾は2発。


「当たらない……!」


「無駄撃ちはするな!」


 レイヴンが叫ぶ。


「次は左から来る!!」


 猿が明確な殺意を持ち飛び込んだ。その速度は弾速をゆうに凌駕する。


 レイスの首を狙った直線的な動きを咄嗟の指示で回避する。レイヴンの危険を報せる未来視がなければ今のでレイスは絶命していたはずだ。


 だが、その隙を狙ってガルムが突進した。


「バスティオン!!」


「分かってる!!」


 弾幕。


 銃弾が巨狼の顔面へ叩き込まれる。


 だが、黒角から噴き出し巨躯を覆う粒子が弾丸の威力を減衰させる。


「チッ……!」


 レイヴンの左眼が焼ける。


 二匹の同時未来演算により義眼の負荷が急増する。


 左目から血が滴り落ち、視界が赤く滲む。


 それでも視る。


 見なければ全員死ぬ。

 1人なら逃亡することは可能だ。だが、見知らぬ世界で1人逃げ出し一体何ができようか。

 何よりレイヴンは隊員の命を重んじる。合理的で非人道的ではあるが、身内だけは見捨てない。

 故に、1人逃げ出すという選択肢はない。


「アヴェンジャー! 三秒後、右上!」


「──了解!」


 銀閃。


 高周波ブレードが肉を斬り裂く。

 猿の片腕が宙を舞い、黒い液体が飛び散る。

 明らかな重症を負いながら猿が笑った、そんな気がした直後、切断面が蠢くと肉が増殖し、元の形状へと復元する。

 既存の生物とは根本的に違う怪物が、再び高速移動を再開する。


「再生だと……!?」


 その時、グリードが初めて大声を出した。


「角を壊せ!!」


 全員がそちらを見る。


 グリードの目は、猿の前頭部を見据えていた。


「黒角が核だ!!」


 レイヴンの未来視が収束する。


 視えた。


 唯一の生存未来。


「レイス」


「はい!」


「撃て。次に止まる場所だ!」


 レイヴンが指差す。


 猿が跳ぶ。


 演算された未来が収束する。

 未来視の義眼が、終幕を観測した。


 一瞬だけ、枝上で静止する猿。

 そこは、レイヴンが示した終わりの位置だった。


 レイスが引き金を絞る。


 乾いた銃声。

 正確無比にして無慈悲なる死の旋律。


 弾丸が、猿の黒角を撃ち抜く。


 瞬間、猿の身体が崩れた。


 肉体そのものが砂のように崩壊していく。


「倒した……?」


 レイスが息を呑む。


 だが次の瞬間、バスティオンが押し留めていたガルムが咆哮した。


 轟音。


 空気が爆ぜる。


 巨木が軋む。


 黒い巨狼が、一瞬グリードを見つめる。


 その赤い瞳にほんの一瞬だけ、理性のようなものが見えた気がした。


 グリードが呆然と呟く。


「……ガルム」


 グリードと視線を交わした黒い巨狼は森の奥へ跳躍し、やがて気配が消え森に静寂帰ってきた。


 荒い呼吸だけが残る。


 誰も動かなかった。


 レイヴンは血が滴る左目を押さえながら、その場に倒れ込む。


 視界が暗く染まっていく。


 最後に見えたのは、赤い空だった。

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