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観客のいない世界  作者: 亀


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第88章 記録にない持ち主

榊原が用意した資料は、翌日の昼までに整理された。


箱の取得記録は全部で二十七件。


そのうち、取得した場所が分かっているものは十九件。譲渡した人物の名前が残っているものは十四件だった。


同じ箱について複数の記録がある可能性もあり、二十七件すべてが別々の箱だとは限らない。


主人公は、その数字を紙に書き出した。


「思っていたより少ないな」


直人が言った。


「記録に残っている分だけだからな」


主人公は答えた。


「箱を手に入れたとき、必ず記録を残していたとは限らない。古い記録が失われた可能性もある」


「つまり、実際にはもっと多いかもしれない」


「逆に、同じ箱を別々に記録している可能性もある」


直人は紙を覗き込んだ。


「結局、何個あるのかも分からないわけか」


「少なくとも、榊原家が保管している箱の数は確認できる。今はそれでいい」


主人公は十四人の名前を別の紙に書き写した。


そのうち、現在の所在が分かっている人物は五人。


すでに亡くなっている人物は六人。


残りの三人については、記録が途切れていた。


「まずは、この五人からだな」


榊原が尋ねた。


「会いに行くのですか?」


「いや。先に、どういう人間だったのかを調べたい」


「理由は?」


「箱を手放した理由が分かれば、次にどこを調べるべきか考えられる」


榊原は納得したように頷いた。


「分かりました。こちらで確認します」


彼は部下を呼び、五人の情報を集めるよう指示した。


主人公は、その様子を見ながら考えていた。


箱を手放す理由は、人によって違うはずだ。


金に困って売った者。


価値が分からず処分した者。


何かの取引に使った者。


危険なものだと思って手放した者。


そして、箱の意味を知りながら、誰かに渡した者。


同じ箱を持っていたとしても、全員が同じことを考えていたとは限らない。


それを確かめるには、箱だけではなく、持ち主の事情も調べなければならなかった。


***


最初に情報が集まったのは、五人のうち最も古い記録に登場する人物だった。


名前は、三浦宗一郎。


すでに三十年以上前に亡くなっている。


生前は地方の運送業を営んでいたが、晩年には事業を縮小し、親族に仕事を譲ったらしい。


箱を手に入れたのは、事業がまだ大きかったころだった。


譲渡記録には、こう書かれていた。


《倉庫整理の際に発見。由来不明。本人は保管を希望》


主人公はその一文を何度も読み返した。


「倉庫整理で発見したのか」


直人が言った。


「少なくとも、本人が箱を探していたわけではなさそうだな」


「そうとは限らない」


主人公は記録を指した。


「発見したという部分は、榊原家が聞いた話を記録しただけかもしれない。本人が本当に何も知らなかったかどうかは分からない」


「じゃあ、親族に聞くのか?」


「そうだな」


榊原はすでに連絡先を調べていた。


「三浦家は現在もこの地域に住んでいます。家業は別の者が引き継ぎましたが、宗一郎の孫にあたる方が、昔の倉庫と帳簿を管理しているそうです」


「会えるように頼んでくれ」


「分かりました」


主人公は記録をしまった。


一人目の持ち主が、箱の秘密を知っていたかどうかはまだ分からない。


だが、少なくとも箱がどのように保管されていたのか、手がかりを得られる可能性はあった。


***


三浦家の倉庫は、街の外れにあった。


古い木造の建物で、現在は使われていない道具や帳簿が保管されている。


出迎えたのは、六十代ほどの男性だった。


「榊原さんから話は聞いています。祖父の箱について調べたいそうですね」


主人公は頭を下げた。


「突然すみません。箱の由来について、何かご存じないかと思いまして」


「残念ですが、私は実物を見たことがありません」


男性は正直に答えた。


「祖父が亡くなったあと、父が倉庫を整理したときに、いくつか古い品物が見つかったそうです。その中に黒い箱があったと聞いています」


「それは、榊原家に渡した箱ですか?」


「そうです。父は処分するつもりだったそうですが、榊原家が買い取りたいと言ってきた。それで譲ったと聞いています」


主人公は少し考えた。


「お祖父さんは、箱について何か話していませんでしたか?」


男性は首を横に振った。


「私が子供のころ、祖父の部屋には入るなと言われていました。理由は聞いていません。箱が関係していたのかどうかも分かりません」


「箱を見せてもらうことは?」


「できません。もう手元にはありませんから」


男性は申し訳なさそうに言った。


「ただ、祖父が使っていた帳簿なら残っています。何かの役に立つかもしれません」


彼は倉庫の奥から、古い帳簿を数冊持ってきた。


主人公たちは、その場でページをめくり始めた。


運送の記録。


商品の仕入れ。


倉庫の修繕費。


人件費。


箱に関係しそうな情報は、すぐには見つからなかった。


ところが、一冊の帳簿の最後に、通常の取引記録とは違う短い記述があった。


《旧倉庫、地下部分の封鎖を確認》


主人公は手を止めた。


「旧倉庫というのは、ここですか?」


男性は帳簿を覗き込んだ。


「いいえ。これは祖父が使っていた、もう一つの倉庫でしょう。今の建物より古いものです」


「どこにあったんですか?」


「街の北側です。ずいぶん前に取り壊されたと聞いています」


「地下部分というのは?」


「分かりません。私も初めて見ました」


主人公は、その記述を紙に写した。


箱が見つかった倉庫と、地下部分を封鎖した倉庫が同じなのかどうか。


その地下に何があったのか。


記録だけでは判断できない。


だが、箱の由来を調べるうえで、無視できない情報だった。


***


三浦家を出たあと、直人が尋ねた。


「地下倉庫を探すのか?」


「場所を確認してからだ」


「もう取り壊されているんだろう?」


「建物がなくても、土地や古い記録は残っているかもしれない」


主人公は、写し取った記述を見た。


「ただ、地下に箱があったと決まったわけじゃない。封鎖した理由も分からない」


「行ってみなければ分からない、ということか」


「そうだ」


二人が馬車に乗り込もうとしたとき、榊原の部下が走ってきた。


「お待ちください。追加の情報が入りました」


彼は一枚の紙を差し出した。


「三浦宗一郎の古い取引相手について調べていたところ、別の人物の記録が見つかりました」


主人公は紙を受け取った。


そこには、三浦家の帳簿にも、榊原家の箱の取得記録にも登場しない名前が書かれていた。


「この人物も箱を持っていたのか?」


「まだ分かりません。ただ、三浦宗一郎と何度も取引していたようです。そして、三浦が亡くなる数年前に、突然この地域から姿を消しています」


「行き先は?」


「記録がありません」


主人公は紙を見つめた。


一人目の持ち主を調べ始めたばかりなのに、別の人物が浮かび上がった。


その人物が箱を持っていたのかどうかも分からない。


三浦宗一郎との関係が、単なる商取引だった可能性もある。


それでも、調べる順番が一つ増えた。


主人公は紙を折り、懐にしまった。


「まずは旧倉庫の場所を調べる。そのあと、この人物についても確認しよう」


直人が頷いた。


榊原の部下は、少し不安そうに尋ねた。


「もし、何も見つからなかったら?」


主人公は馬車に乗りながら答えた。


「そのときは、次を調べる」


それ以上のことは言わなかった。


箱の秘密に近づいているのか、それとも無関係な記録を追いかけているだけなのか。


今の彼には分からない。


ただ、箱を手放した人間の記録をたどることで、これまで見えていなかった場所と名前が少しずつ浮かび上がってきていた。

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