第86章 返却済みの箱
「返却済み……?」
直人が主人公の隣から箱を覗き込んだ。
黒い箱の側面には、小さな文字が刻まれていた。長い年月を経て表面は擦り減っているが、その二文字だけは、ほかの傷とは明らかに違っていた。
誰かが後から刻んだものではない。
少なくとも、主人公にはそう見えた。
「榊原さん。この箱はどこで手に入れた?」
榊原は箱を見たあと、少し考えた。
「正確な場所は分かりません。私が受け継いだときには、すでに家の倉庫にありました」
「お父さんは?」
「父も祖父から受け継いだそうです。祖父がどこで手に入れたのかは、記録に残っていません」
「箱を調べた記録はある?」
「あります。ただし、役に立つかどうかは分かりません」
榊原は部下に指示を出した。
男が馬車の奥から、厚い帳面を二冊持ってくる。
一冊目は、箱の収集記録だった。
箱を手に入れた年月、取引相手、支払った金額、発見された場所。分かる範囲の情報が整理されている。
二冊目は、調査記録だった。
箱の寸法、重量、表面の材質、傷の位置、加熱実験の結果。
どのページにも、決定的な成果は書かれていなかった。
主人公は一冊目をめくった。
「この箱を手に入れたのは、いつ?」
榊原が指さしたのは、二十年以上前の日付だった。
「祖父の代です。取引相手は、すでに亡くなっています」
「その人は、どこで手に入れた?」
「記録にはありません」
主人公は帳面を閉じた。
「分かった。こっちの調査記録を見せてくれ」
榊原は少し意外そうな顔をした。
「箱そのものを調べるのではなく、記録から始めるのですか?」
「箱は今ここにある。でも、どうやって手に入れたかは、今から調べても分からないかもしれない」
主人公は二冊目を開いた。
「昔の記録なら、何か残っている可能性がある」
榊原は反論しなかった。
彼らは箱そのものを調べ続けてきた。
主人公は、箱に関わった人間のほうを調べようとしていた。
どちらが正しいのかは、まだ分からない。
ただ、同じ方法を繰り返しても結果が変わらないことだけは、榊原も理解していた。
***
調査記録には、似たような実験が何度も繰り返されていた。
表面を削る。
内部の構造を調べる。
箱同士を接触させる。
一定の温度に保つ。
強い衝撃を与える。
そのたびに、結果は同じだった。
箱は開かなかった。
主人公は、あるページで手を止めた。
「これは?」
「箱同士を組み合わせた実験です」
榊原が答えた。
「同じ印のある箱を複数並べ、接触させました。何度も試しましたが、変化はありませんでした」
「何個で試した?」
「当時、保管していた六個です」
主人公は帳面の図を見た。
六個の箱が、円形に配置されている。
その中央には、何もなかった。
「この配置にした理由は?」
「特にありません。担当者が思いついた方法です」
「別の配置は?」
「もちろん試しました。直線、正方形、上下に積み重ねる方法も。結果は変わりません」
主人公は、図の横に書かれた短い文章を読んだ。
《反応なし。構造的な連結も確認できず》
彼はそのページを閉じた。
三つの箱を組み合わせたとき、自分たちが見つけたのは箱の内部ではなかった。
地下へ続く通路だった。
つまり、箱そのものが開いたわけではない。
箱が何らかの条件を満たしたことで、別の仕組みが動いた可能性がある。
だが、それが三つという数に意味があったのか、古い管理区の記録が関係していたのか、あるいは別の条件が重なったのか。
まだ判断できなかった。
「榊原さん」
「はい」
「あなたたちが持っていた箱は、六個だけ?」
「いいえ。現在はもっとあります」
「じゃあ、どうして六個で調査をやめたんだ?」
「やめたわけではありません。その後も収集は続けました。ただ、箱を増やしても結果が変わらなかったので、調査の中心は材質や構造の分析に移りました」
主人公は頷いた。
彼らが無能だったわけではない。
持っている情報と手段の範囲内で、考えられることを試したのだろう。
ただし、その方法では開かなかった。
それだけのことだった。
「この記録、全部見せてもらえるか?」
「構いません。ただし、原本は持ち出せません」
「写しでいい」
榊原は部下に準備を命じた。
そのとき、直人が別の帳面を手に取った。
「おい。これ、ちょっと見てくれ」
開かれていたのは、箱を手に入れた相手について記した古い一覧だった。
直人は一つの名前を指していた。
「この名前、前の商家の記録にも出ていなかったか?」
主人公は帳面を受け取った。
そこに書かれていたのは、商家がかつて取引したことのある運送業者の名前だった。
同じ人物なのか、同じ一族の別人なのかは分からない。
だが、時期は近かった。
「商家から箱が直接流れたとは限らないな」
主人公が言った。
「そうだな。途中で何人も挟んでいる可能性がある」
直人は一覧を見直した。
「でも、少なくとも箱が人から人へ渡っていたことは分かる」
榊原は二人の会話を聞いていた。
「商家の箱について、もっと調べるつもりですか?」
「必要ならな」
「我々も協力できます」
主人公は顔を上げた。
「まだ、そこまで決めてない」
榊原は口を閉じた。
主人公は彼らを信用していない。
それは当然だった。
彼らはもともと商家の箱を狙い、その競争相手を支援していた人間たちだ。主人公が商家を助けなければ、彼らは別の方法で箱を手に入れようとしていたかもしれない。
今回、協力を持ちかけたのも、主人公が箱の秘密を知っていると考えたからだ。
その期待が外れたからといって、彼らの利益まで消えたわけではない。
主人公が調査に成功すれば、その成果を共有させる。
それが彼らの狙いだった。
主人公もまた、彼らの箱と記録を利用するつもりだった。
それ以上の関係は、今のところ必要なかった。
***
日が傾くころ、榊原の屋敷へ移動することになった。
箱を積んだ馬車は、主人公たちの後ろを走っていた。
屋敷の倉庫には、さらに多くの箱が保管されていた。
その数は、主人公が想像していたよりも多かった。
ただし、すべてが同じ場所に置かれていたわけではない。
いくつかは別の倉庫にあり、いくつかは親族が管理しているという。
主人公は、それらを無理に一か所へ集めようとはしなかった。
まずは、榊原が所有する箱の一覧を作る。
それぞれの箱に刻まれた印を確認する。
過去の記録と照合する。
そして、分かっていることと分かっていないことを分ける。
直人は記録の整理を担当し、復讐者は倉庫の出入りと保管状況を確認した。
榊原側も、調査に必要な人員を出した。
作業は遅かった。
箱の年代は不明なものが多く、過去の記録にも欠落があった。
同じ箱を別々の人間が記録している可能性もある。
逆に、別の箱が同じものとして扱われている可能性もあった。
数を数えるだけでも、すぐには終わらなかった。
夜になっても、整理は続いた。
主人公は最後の帳面を閉じた。
「今日はここまでだ」
榊原が聞いた。
「何か分かりましたか?」
「まだ何も」
主人公は正直に答えた。
「ただ、次に何を調べるべきかは、少し見えてきた」
「何を?」
主人公は、机の端に置かれた箱を見た。
「箱の開け方じゃない」
「では?」
「誰が、どこから、何のために箱を集めていたのか。それを調べる」
榊原は黙った。
長い間、彼らは箱を集め、箱そのものを調べてきた。
これから主人公が始めようとしているのは、箱を持っていた人間たちの歴史を調べることだった。
それで秘密が分かる保証はない。
調べた結果、何も見つからない可能性もある。
それでも、同じ場所を回り続けるよりは、別の道を試す価値があった。
「分かりました」
榊原は答えた。
「必要な記録は提供します。ただし、約束を忘れないでください」
「箱の秘密が分かったら共有する。そうだろ?」
「はい」
主人公は頷いた。
「約束は覚えている」
それ以上の言葉は交わさなかった。
その夜、主人公は三つの箱と、榊原から預かった調査記録を並べていた。
一つずつ見比べても、すぐに答えは出ない。
箱に刻まれた印。
古い管理区の記録。
そして、返却済みという文字。
それぞれが何を意味するのか、まだ分からなかった。
主人公は帳面を閉じ、灯りを消した。
箱は開かない。
秘密も分からない。
けれど、箱を持っていた人間たちの記録は残っている。
今は、それを一つずつ追っていくしかなかった。




