第84章 箱を渡す条件
馬車が止まった。
男はすぐには降りなかった。
窓の内側から、三人を順番に見ている。
男の後ろには、黒い木箱がいくつも積まれていた。
大きさも形も、それぞれ違う。
ただ一つだけ共通している。
すべての箱に、あの印があった。
直人が眉をひそめた。
「……あれは」
「見覚えがありますか」
男が聞いた。
直人は答えなかった。
主人公も黙って箱を見ていた。
第三の箱を見つけてから、まだそれほど時間は経っていない。
それなのに、目の前には自分たちが見たこともない数の箱が並んでいる。
男は馬車から降りた。
「私は、榊原と申します」
商人らしい服装だった。
派手ではない。
しかし、身につけているものには無駄がなかった。
「あなた方が先ほど古い交易都市から出てきたことは確認しています」
直人が一歩前へ出た。
「尾行していたのか?」
「正確には、待っていました」
榊原は否定しなかった。
「あなた方が第三の箱を見つけることも、予想していました」
主人公は榊原を見る。
「どうして?」
「その前に、こちらから一つ質問させてください」
榊原は主人公の腰にある袋を見た。
そこには、三つの箱が入っている。
「その箱を開ける方法を知っていますか?」
主人公は少し考えた。
「知らない」
榊原は意外そうな顔をしなかった。
むしろ、納得したように息を吐いた。
「やはり」
「やはり?」
「あなたも知らないのですね」
その言葉に、直人が反応した。
「どういう意味だ?」
榊原は答える代わりに、馬車の扉を開いた。
「中を見てください」
主人公が馬車の中を覗く。
黒い箱。
その奥にも箱。
さらに奥にも箱。
数える気にならないほど積まれていた。
直人が言葉を失った。
「……こんなに?」
榊原は静かに頷いた。
「我々の家は、これを長い間集めてきました」
「家?」
「私だけではありません」
榊原は馬車の奥を見た。
「祖父も、父も、その前の人間もです」
主人公は一つの箱に手を伸ばした。
しかし、触れる前に止めた。
「それで?」
「何十年調べても、何も分かりませんでした」
榊原は苦笑した。
「箱を壊しても駄目でした。熱を加えても、薬品を使っても、内部構造を調べても、何も出てこない」
「壊した?」
直人が聞く。
「壊れませんでした」
榊原は淡々と答えた。
「正確には、壊そうとした道具のほうが壊れました」
主人公は箱を見た。
自分が持っているものと同じだった。
「じゃあ、どうして俺を狙った?」
榊原は少し黙った。
それから、主人公を正面から見た。
「あなたが、商家の箱を手に入れたからです」
主人公の目が変わった。
「……あの家のことを知っている?」
「もちろん」
榊原は答えた。
「我々は、あの商家が持っていた箱を欲しがっていました」
直人が眉を寄せる。
「だったら、直接取りに行けばよかっただろ」
「簡単に言いますね」
榊原は苦笑した。
「大きな商家です。正面から奪えば、周囲の商人にも警戒される。こちらの存在も知られてしまう」
「だから競争相手を使った」
主人公が言った。
榊原は否定しなかった。
「あなたは気づいていたのですね」
「全部じゃない」
「十分です」
榊原は馬車から一枚の紙を取り出した。
そこには、商家を取り巻く商人たちの名前が書かれていた。
主人公は一度見ただけで、すぐに理解した。
あのとき商家へ流れていた情報。
偽の取引。
倉庫。
葛城。
そして、南方の事業を半値で買おうとした商人。
全部が一つの線で繋がっていたわけではない。
いくつもの商人が、それぞれ利益を求めて動いていた。
榊原たちは、その流れを利用した。
「俺たちが邪魔をしたから、今度は俺を直接狙ったわけか」
「そういうことです」
「箱が欲しい?」
「はい」
「俺を殺してでも?」
榊原は少し考えた。
「最初は、そのつもりでした」
直人が刀に手をかける。
だが榊原は続けた。
「しかし、今は少し事情が変わりました」
主人公は黙っていた。
「あなたは箱を三つ持っている」
榊原は言った。
「そして、我々より先に箱の仕組みを進めている」
「進めている?」
「第三の箱を見つけたでしょう」
主人公は答えなかった。
榊原は続ける。
「我々は、何十年もかけて箱を集めました。それでも、何も起こらなかった」
「俺だって、まだ何も分かってない」
「ええ」
榊原は頷いた。
「それが分かったから、話を変えたいのです」
主人公は警戒したままだった。
「どうする?」
榊原は馬車の奥を指した。
「これを、あなたに渡します」
直人が振り返った。
「……全部?」
「全部ではありません」
榊原は答えた。
「我々が保管しているものの一部です」
「どうして?」
「我々だけでは、もう限界だからです」
榊原の声には、悔しさも誇りもなかった。
ただ、長年の失敗を受け入れた人間の声だった。
「あなたは三つの箱を手に入れた」
「我々は何十年も調べても何もできなかった」
「ならば、方法を変えるしかない」
主人公は箱を見る。
そして榊原を見る。
「条件は?」
榊原は即答した。
「箱の秘密が分かったら、我々にも教えてください」
「それだけ?」
「それだけです」
「俺が拒否したら?」
「その場合は、箱を奪うしかありません」
榊原は淡々と言った。
「だから、今ここで決めてください」
周囲の男たちが一斉に武器へ手を伸ばした。
直人も構える。
復讐者も無言で前へ出た。
だが主人公は手を上げた。
二人を止める。
主人公は榊原を見る。
「箱を渡すのは、俺を信用しているからじゃないな」
「もちろんです」
「俺が信用できると思っているわけでもない」
「その通りです」
「じゃあ、俺が箱を持っていたほうが都合がいい?」
榊原は初めて少しだけ笑った。
「その通りです」
主人公は箱を見る。
自分が何を追っているのか、まだ分からない。
祖先が何を残したのか。
なぜ箱が存在するのか。
誰がこれを作ったのか。
何も分からない。
それでも一つだけ分かっていることがある。
この箱を追っている人間は、自分だけではない。
そして、目の前の人間たちもまた、長い時間をかけて何かを探している。
主人公は言った。
「分かった」
直人が振り向く。
「おい」
「ただし、条件がある」
榊原は黙って聞いた。
「俺が調べる」
主人公は言った。
「でも、俺の行動を邪魔するな」
榊原は少し考えた。
「分かりました」
「それから、俺が見つけたものを全部教えろ」
「……我々の情報も?」
「当然だろ」
榊原はしばらく主人公を見た。
そして、手を差し出した。
「契約成立です」
主人公はその手を見た。
すぐには握らなかった。
「まだ契約じゃない」
「なぜ?」
「箱を見てからだ」
榊原は納得したように手を引いた。
「分かりました」
馬車の扉が開かれる。
男たちが次々と箱を運び出した。
一つ。
二つ。
三つ。
さらに四つ。
主人公の前に、黒い箱が並んでいく。
それぞれに、同じ印が刻まれていた。
その数を見て、主人公は初めて思った。
自分が追っているものは、もしかすると一人の祖先が残した秘密ではないのかもしれない。
もっと多くの人間が、もっと長い時間をかけて追い続けてきたものなのかもしれない。
そして、その箱の一つには。
これまでの箱とは少し違う傷があった。
主人公は、それを見つめた。
誰かが何度も開けようとした跡だった。
だが、その箱だけには。
他の箱にはなかった、小さな文字が残っていた。
――「返却済み」。
主人公は、その二文字から目を離せなかった。




