第81章 最後の餌
翌朝。
族長の部屋には、昨夜男主人公が見た書状が置かれていた。
だが、商売の話が先だった。
「昨日の情報は、もう市場に流れた」
族長が言う。
「三か月で利益が回復するという話ですか?」
「そうだ」
「反応は?」
「早い」
族長は一枚の報告書を渡した。
「昨夜のうちに、三つの商家が動いた」
男主人公は目を通した。
一つは蓮司家の仕入れ先に接触している。
一つは新しく取引を始めた小商家を調べている。
そしてもう一つは――
「南方事業を買い戻したい?」
「そうだ」
族長が笑った。
「一度は半値で買おうとした男が、今度は以前の倍近い価格を提示してきた」
蓮司が驚く。
「そんなに?」
「それだけ、こちらの情報を信じたということだ」
男主人公は書類を置いた。
「なら、売りましょう」
蓮司が振り返る。
「本当に?」
「売るのは事業の一部だけです」
族長も頷いた。
「全部ではない」
「はい」
男主人公は地図を広げた。
「相手が欲しがっている地域だけを切り離します」
「そして?」
「その代わり、相手に高く買わせる」
族長の目が細くなる。
「さらに?」
「買った後で価値が下がるようにする」
蓮司が驚いた。
「それじゃ、騙すことになる」
「騙すのではありません」
男主人公は言った。
「契約通りに売るだけです」
南方事業の中には、いくつかの古い取引契約が残っていた。
それらは譲渡できる。
ただし、一定期間は蓮司家が運送と一部の管理を担当する必要がある。
相手が事業そのものを欲しがるなら、それも含めて買うしかない。
「つまり、買った側は大金を払った上に、しばらく管理費まで負担する」
「そうです」
族長は笑った。
「商売だな」
その日の午後。
葛城が再び屋敷へやって来た。
以前とは違い、今度は一人ではなかった。
後ろには二人の商人がいる。
「族長」
葛城は頭を下げた。
「先日の話を、もう一度させていただきたい」
族長は椅子に座ったままだった。
「条件は?」
葛城は書状を出した。
「前回の倍です」
蓮司が息を呑む。
族長は書状を見る。
「ずいぶん高くなったな」
「市場が変わりましたから」
「そうか」
族長は男主人公を見る。
男主人公は黙って頷いた。
「売ろう」
族長が言った。
葛城の顔に笑みが浮かぶ。
「ありがとうございます」
「ただし」
族長は続けた。
「こちらの条件も飲んでもらう」
葛城の笑顔が消えた。
「どのような条件でしょう?」
「既存の契約をすべて引き継ぐこと」
「もちろん」
「倉庫の維持費も」
「……」
「さらに、現在の従業員を半年間維持すること」
葛城が黙った。
族長は淡々と続ける。
「嫌なら、この話はなかったことにする」
葛城は隣の商人を見る。
しばらく考えた後、頷いた。
「分かりました」
契約が成立した。
蓮司家は南方事業の一部を高値で売却した。
しかし、取引を終えた葛城が屋敷を出た後。
男主人公は言った。
「これで終わりです」
族長が聞く。
「本当に?」
「はい」
「なぜ?」
「相手はもう、この家を攻撃する理由がありません」
男主人公は帳簿を見る。
「むしろ、今後はこの家が安定しているほうが都合がいい」
「買った事業を運営するために?」
「それもあります」
男主人公は続けた。
「それに、相手は今回かなりの金を使いました」
族長が笑う。
「つまり、こちらの損失を相手の利益に変えたわけか」
「正確には、相手が自分から高く買っただけです」
族長は満足そうに頷いた。
その日の夕方。
族長は屋敷の中に残っていた帳簿を整理した。
そして、男主人公を呼んだ。
「来い」
男主人公が部屋に入る。
族長は一つの小さな木箱を机の上に置いた。
「これだ」
男主人公の視線が止まった。
見覚えがある。
形も。
材質も。
黒い金属で補強された外側も。
自分が持っている箱と、ほとんど同じだった。
「これを?」
「お前が探しているものに関係している」
男主人公は箱へ手を伸ばした。
だが、族長が手で止めた。
「まだ渡していない」
男主人公は族長を見る。
「約束したはずです」
「そうだ」
族長は笑った。
「だから、最後の計算をする」
「何を?」
族長は椅子に座り直した。
「この箱を渡すことで、私に何の利益がある?」
男主人公は少し黙った。
やはり、この男は最後まで商人だった。
家を救った。
商売を立て直した。
競争相手から利益まで引き出した。
それでも、ただでは渡さない。
男主人公は箱を見た。
「族長は、もう十分に利益を得ています」
「それは商売の結果だ」
「では、何が欲しい?」
族長は笑った。
「それを考えるのは、お前だ」
男主人公はしばらく黙った。
そして答えた。
「この箱の中身について、私には必要な情報があります」
「それは利益ではない」
「族長にとっては価値がない情報です」
族長の目が動いた。
男主人公は続けた。
「だから、私が何を知りたいのかを聞かないでください」
族長は黙った。
やがて、小さく笑う。
「なるほど」
族長は箱を男主人公の前へ押した。
「ならば、最後の条件だ」
「何ですか?」
「この箱について、私が知っていることを一つだけ話す」
男主人公は頷いた。
族長は箱を指した。
「これは、私の祖父が死ぬ前に残したものだ」
男主人公の表情が変わった。
「祖父も、これを開けられなかった」
そして族長は続けた。
「だが、祖父は一度だけ言った」
「何と?」
族長は男主人公を見る。
「『この箱は、開けるために持つものではない。次の人間に渡すために持つものだ』とな」
男主人公は黙った。
族長は箱を押し出した。
「これでいいだろう」
男主人公は箱を受け取った。
「ありがとうございます」
「礼は要らない」
族長は笑った。
「私は、商売をしただけだ」
男主人公もそれ以上何も言わなかった。
屋敷を出る時。
蓮司が見送りに来た。
「もう行くのか?」
「はい」
「せっかく仲良くなったのに」
男主人公は少し笑った。
「仲良くなったつもりはありません」
「ひどいな」
蓮司も笑った。
男主人公は黒い箱を二つ抱えて、屋敷を離れた。
一つは祖先が残した箱。
もう一つは、今回の商家から手に入れた箱。
どちらも、まだ開かない。
だが――
二つの箱を並べた時。
片方の表面に刻まれた小さな印が、もう片方と完全に一致していることに気づいた。




