第76章 半値の取引
翌朝。
族長は、南方事業の売却を申し出た商人を屋敷へ招いた。
男主人公も同席している。
蓮司は少し離れた場所に座っていた。
相手は四十代ほどの男だった。
服装は派手ではない。
だが、指にはいくつもの高価そうな指輪をしている。
「突然の話で申し訳ない」
商人は笑顔で言った。
「こちらとしても、蓮司家に損をさせたいわけではありません」
族長は淡々と答える。
「半値で買う話をしておいて、それは面白い」
「市場が厳しいので」
「それはお互い様だ」
族長は書状を机に置いた。
「なぜ半値なんだ?」
商人は少し考えてから答えた。
「蓮司家が南方から撤退するという噂を聞きました」
「誰から?」
「市場です」
「市場は人間ではない」
商人の笑顔が一瞬だけ固まった。
男主人公は黙って見ていた。
族長は続ける。
「誰が言った?」
「商人仲間です」
「名前は?」
「それは……」
族長は笑った。
「商人同士なら、名前を隠す必要はないだろう」
「情報源を守る必要があります」
「なるほど」
族長は椅子にもたれた。
「では、売却しよう」
蓮司が思わず顔を上げる。
商人も驚いた。
「本当に?」
「条件がある」
「何でしょう?」
「今すぐ半金を払え」
商人の顔から笑顔が消えた。
「それは難しい」
「なぜ?」
「事業を確認してからでなければ」
族長は笑った。
「面白い」
「何がです?」
「買いたいほど価値があるのに、金を払うのは嫌なのか」
商人は答えなかった。
男主人公が初めて口を開いた。
「この人は南方事業そのものが欲しいわけではありません」
商人が男主人公を見る。
「何を言っている?」
「この人が欲しいのは、事業の中身です」
「証拠は?」
男主人公は机の上に一枚の紙を置いた。
そこには、南方事業に関する情報が書かれていた。
ただし、一部だけ偽物だった。
「この条件であれば、事業は売ります」
商人は紙を読んだ。
そして、ほんの一瞬だけ目を動かした。
男主人公は見逃さなかった。
「その数字を気にしましたね」
「……何のことだ?」
「販売価格です」
商人は黙った。
「この価格は、実際のものより少し高く設定してあります」
「ならば、買う意味がない」
「そうでしょうか?」
男主人公は笑った。
「あなたが欲しいのは、この価格ではありません」
商人の表情が変わった。
「あなたが知りたいのは、蓮司家がどこまで本当に追い詰められているかです」
族長は何も言わない。
男主人公は続ける。
「だから半値を提示した」
「……」
「本当に倒産寸前なら、こちらは受け入れる」
「だが、もし断れば――」
男主人公は商人を見る。
「あなたは、まだこの家に価値があると思っている」
商人は黙った。
族長が笑う。
「なるほどな」
商人が立ち上がる。
「今日は帰らせてもらう」
「もちろん」
男主人公は止めなかった。
商人は広間を出ていった。
扉が閉まる。
蓮司が息を吐く。
「何だったんだ、今の?」
族長は答えなかった。
男主人公も黙っている。
しばらくして、族長が言った。
「お前は、あの男が何を考えていると思う?」
「この家が本当に倒産するのを待っています」
「なぜ?」
「その時に、一番安く買えるからです」
族長は頷いた。
「そして、今の段階ではまだ買う価値があると思っている」
「はい」
族長は机を指で叩いた。
「ならば、まだ余裕がある」
「そういうことです」
蓮司が聞く。
「じゃあ、どうする?」
男主人公は答えた。
「もっと困っているように見せます」
族長が笑った。
「大胆だな」
「相手が待っているなら、待たせればいい」
「何のために?」
男主人公は外を見る。
「相手が動かざるを得なくなるまで」
その日の午後。
蓮司家は、さらに一つの噂を流した。
――南方事業だけではなく、北方の倉庫も売却する。
さらに翌日。
――蓮司家は大口取引を一件失った。
さらにその翌日。
――族長が借金を返せなくなった。
噂は市場を駆け巡った。
そして四日目。
蓮司家の前に、一人の男が現れた。
「族長に会わせてほしい」
門番が尋ねる。
「ご用件は?」
男は周囲を確認してから言った。
「南方事業を買いたい」
門番は男の顔を見る。
「先日も同じ話がありました」
「私は別の条件を持ってきた」
男は一枚の書状を差し出した。
門番がそれを受け取る。
書状には、南方事業の売却価格が書かれていた。
最初の商人より、さらに低い。
門番が眉をひそめる。
「こんな値段で?」
男は笑った。
「今の蓮司家なら、それでも高いくらいだ」
門番はその男を屋敷へ通した。
広間で族長が書状を見る。
そして、男主人公に渡した。
男主人公は一度読む。
それから族長を見る。
「この人です」
「何が?」
「情報を加工して売っている中心に近い人間です」
族長の目が細くなる。
「なぜ分かる?」
男主人公は書状の最後の数字を指した。
「この数字は、四日前に市場へ流した偽情報と一致しています」
族長は笑った。
「ようやく釣れたか」
男主人公は頷いた。
だが、その男は笑っていた。
「蓮司家はもう長くありません」
その言葉を聞いても、族長は表情を変えなかった。
「ならば、最後まで商売を楽しもう」
男主人公はその隣で黙っていた。
罠にかかったのは、まだ一人。
だが、この一人の背後には、さらに別の人間がいる。
そして男主人公は、そこまで辿り着くつもりだった。




