第74章 偽りの取引
翌朝。
蓮司家の屋敷では、いつもと変わらないように朝の仕事が始まっていた。
帳場では使用人が帳簿を整理し、倉庫では荷物が運び出されている。
誰も、昨夜の話を知らない。
男主人公が仕掛けた罠を知っているのは、族長と蓮司、それから数人だけだった。
「絹を大量に買う」
その情報だけが、わざと外へ流された。
もちろん、実際には買わない。
族長は普段通りに商談を続けていた。
男主人公は屋敷の中で待っていた。
「本当に来ると思うか?」
蓮司が尋ねる。
「分かりません」
「分からないのにやるのか?」
「だから試すんです」
蓮司は苦笑した。
「お前は変わっているな」
「そうですか?」
「普通なら、確実な方法を探す」
「確実な方法がないから、確認するしかありません」
昼を過ぎても、何も起こらなかった。
夕方になった。
それでも、絹の値段は変わらない。
蓮司が言う。
「失敗したんじゃないか?」
「まだ早い」
「なぜ?」
「本当に情報を売っているなら、情報を受け取ってから動くまで時間がかかる」
「買うための金を用意する?」
「それもあります」
男主人公は窓の外を見た。
「もう一つ」
「何だ?」
「相手が、本当に絹を欲しがっているとは限らない」
蓮司が首を傾げる。
「どういうことだ?」
「情報が正しいか確認するために、別の場所へ流すかもしれない」
その直後だった。
屋敷の門番が走ってきた。
「族長様!」
族長が顔を上げる。
「どうした?」
「西の商家から連絡がありました」
「何?」
「明日、こちらと同じ量の絹を買う予定だそうです」
広間が静まり返った。
蓮司が男主人公を見る。
男主人公は頷いた。
「来た」
族長が尋ねる。
「価格は?」
「すでに上がり始めています」
族長は椅子から立ち上がった。
「つまり……」
「私たちが買うと思って、相手が先に動いた」
男主人公が答えた。
「そして、その情報を受け取った商家も動いた」
族長の表情が変わった。
これは単純な情報漏洩ではない。
情報が市場を動かしている。
蓮司家が何を買うか。
どの商品を売るか。
どこから仕入れるか。
それを知った者が先に動く。
さらに、その情報を別の商家へ売る。
そうして市場そのものが変えられていた。
族長はしばらく黙っていた。
「面白い」
「何がですか?」
「私たちはずっと、誰か一人が裏切っていると思っていた」
族長は窓の外を見た。
「だが、違うかもしれない」
男主人公が頷く。
「はい」
「情報を売る人間がいる」
「そして買う人間がいる」
「さらに、その情報を利用する人間がいる」
族長は笑った。
「つまり、一人捕まえて終わる問題ではない」
「そういうことです」
族長は蓮司を見る。
「明日の朝、絹の購入を取りやめろ」
「はい」
「代わりに、南の薬草を予定の二倍買うという話を流せ」
蓮司が目を見開く。
「また餌を?」
「当然だ」
族長は男主人公を見る。
「お前の方法は使える」
「ありがとうございます」
「だが、勘違いするな」
族長の目が鋭くなる。
「私はお前を信用したわけではない」
「分かっています」
「結果を出す人間を使っているだけだ」
「それで十分です」
族長は少し笑った。
「そういうところは嫌いじゃない」
翌日。
今度は薬草の情報が流れた。
しかし、昼になっても何も起こらない。
蓮司が不安そうに言った。
「今回は動かないな」
男主人公は答えなかった。
夕方。
一人の商人が屋敷を訪れた。
「蓮司様にお話があります」
「何の話だ?」
「薬草についてです」
蓮司の顔が変わった。
男主人公は少し離れたところから、その商人を見ていた。
商人は続ける。
「最近、南方の薬草が不足するという噂を聞きました」
「誰から?」
「市場で聞いただけです」
「市場の誰だ?」
「さあ……」
男主人公が口を挟んだ。
「その噂を聞いて、あなたは何をしました?」
商人は男主人公を見る。
「何も」
「本当に?」
「ええ」
男主人公は笑った。
「では、なぜ今日ここへ来たんです?」
商人は答えられなかった。
男主人公は族長を見る。
「この人は情報を買う側ではありません」
族長が尋ねる。
「では?」
「情報を探している側です」
男主人公は商人の手元を見る。
指には、商人が普段使っている帳簿の紙とは違う紙粉が付着していた。
「この人は、今日ここへ来る前に別の商家へ寄っています」
商人の顔色が変わった。
「なぜ分かる?」
「紙の種類が違う」
男主人公は答えた。
「この屋敷の帳簿には使われていない紙です」
商人は黙った。
族長が立ち上がる。
「帰れ」
商人は何も言わず、頭を下げて出ていった。
蓮司が男主人公を見る。
「結局、あいつは何者だったんだ?」
「まだ分かりません」
「分からないのか?」
「でも、一つ分かったことがあります」
男主人公は机の上に二枚の紙を並べた。
一枚は蓮司家の偽情報。
もう一枚は市場で流れた噂。
「相手は、私たちが流した情報をそのまま使っているわけではない」
「少し変えている」
「そうです」
族長が紙を見る。
「情報を加工している」
「そして、別の相手に売っている」
族長は静かに笑った。
「ならば、商売としてはかなり上手いな」
蓮司が驚く。
「父上、褒めるのか?」
「敵だからといって、能力まで否定する必要はない」
族長は男主人公を見る。
「問題は、その人間をどう捕まえるかだ」
男主人公は首を振った。
「捕まえる必要はありません」
「何?」
「もっと簡単です」
「何をする?」
男主人公は、二枚の紙を重ねた。
「相手が欲しがっている情報そのものを、こちらから売ります」
族長の目が細くなった。
「……逆に利用するのか」
「はい」
男主人公は言った。
「この家が破産寸前だと思わせればいい」
広間が静まり返った。
「そうすれば、相手は必ず動きます」
族長はしばらく黙っていた。
そして、初めて楽しそうに笑った。
「なるほど」
商人の顔だった。
「ならば、破産寸前の商家を演じてやろう」
男主人公は頷いた。
この日から。
蓮司家は、意図的に市場へ偽りの弱みを流し始めた。




