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観客のいない世界  作者: 亀


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第73章 最初の損失

翌朝。


男主人公は、族長から三冊の帳簿を渡された。


一冊目は仕入れ。


二冊目は販売。


三冊目は運送記録。


「好きに見ろ」


族長は朝食を取りながら言った。


「ただし、帳簿を壊すな」


「分かっています」


「それから、使用人を勝手に疑うな」


男主人公は顔を上げた。


「疑ってはいけない?」


「疑うのは構わない」


族長は茶を飲んだ。


「証拠もなく人間を切ると、商売が遅くなる」


蓮司が苦笑する。


「父上らしいな」


「商売は人間関係で成り立っている。だが、人間関係だけで商売をすると損をする」


族長はそれだけ言った。


男主人公は帳簿を抱えて部屋を出た。


最初に調べたのは、最近大きな損失が出た取引だった。


南方から仕入れる薬草。


以前なら、百箱仕入れて百二十箱分の利益を見込める。


ところが最近は、仕入れ値が上がり、販売価格も下がっていた。


「この取引だけを見ると、完全に負けています」


直人が帳簿を覗き込む。


「相手が強いってことか?」


「違う」


男主人公は首を振った。


「相手が強いなら、ここまで綺麗にはならない」


「綺麗?」


「仕入れ値が上がった直後に、販売価格が下がっている」


男主人公は数字を指した。


「しかも、毎回ほぼ同じ幅で」


直人が黙る。


「誰かが両方を動かしている?」


「その可能性がある」


男主人公は別の帳簿を開いた。


「でも、ここに妙な記録がある」


薬草を仕入れる三日前。


蓮司家が大量購入を予定していたことを知っている人間は少ない。


族長。


蓮司。


担当者。


そして、運送を手配した者。


男主人公は名前を一つずつ確認した。


「この人は?」


「商会の古参だ」


蓮司が答える。


「信用できるのか?」


「十年以上働いている」


「それは信用の証拠じゃない」


蓮司が少し嫌な顔をした。


「疑っているのか?」


「まだ何も疑っていない」


男主人公は帳簿を閉じた。


「確認したいだけだ」


二人はその人物のところへ向かった。


男は倉庫で荷物を整理していた。


「何か用ですか?」


「三日前の薬草の注文について聞きたい」


男が答える。


「私は運送だけです」


「注文量は誰から聞いた?」


「担当者から」


「その担当者は?」


「族長様の指示で動いています」


男主人公はそれ以上聞かなかった。


代わりに倉庫を見回す。


薬草の箱が並んでいる。


その中に、予定より多い箱があった。


「これは?」


「別の商家の荷物です」


「同じ薬草?」


「はい」


男主人公は箱の印を見る。


蓮司家のものとは違う。


だが、仕入れ元は同じだった。


「いつ届いた?」


「昨日です」


男主人公は箱の横に立った。


「昨日?」


「ええ」


「なら、どうしてこの箱は昨日の荷物なのに、注文書の日付が一週間前になっている?」


倉庫番の男が固まった。


蓮司も気づいた。


「……どういうことだ?」


倉庫番は答えられなかった。


男主人公は箱を開けた。


中には薬草が入っている。


しかし、その下に別の紙があった。


仕入れ値と販売予定価格。


そして――


蓮司家が三日前に購入する予定だった数量と、ほぼ同じ数字が書かれていた。


蓮司の顔が険しくなる。


「これを誰が書いた?」


倉庫番は首を振った。


「知りません」


男主人公は紙を折りたたんだ。


「この紙は、昨日の箱の中に入っていた」


「そうだ」


「なら、昨日の時点ですでに相手は知っていた」


蓮司が言う。


「俺たちの注文を?」


「違う」


男主人公は首を振った。


「もっと前から知っていた」


蓮司は黙った。


男主人公は帳簿を開いた。


薬草の仕入れ予定。


その情報が最初に記録された日。


そこには、族長の名前があった。


「……族長しか知らない情報か」


蓮司が呟く。


男主人公はすぐに答えなかった。


族長本人が漏らしたとは限らない。


むしろ、ここで族長を疑うのは早すぎる。


重要なのは、情報がどの段階で外へ出たかだ。


男主人公は紙を見た。


「この紙は、誰かが作った」


「当然だろ」


「でも、書かれた内容は注文書そのものじゃない」


男主人公は数字を見比べた。


「少しだけ違う」


蓮司が覗き込む。


「本当だ」


「相手は全部を知っているわけじゃない」


男主人公は言った。


「誰かから聞いた情報と、自分で調べた情報を組み合わせている」


つまり――


情報を一つ盗むだけではない。


複数の場所から少しずつ情報を集めている。


その結果、蓮司家の取引を先回りできる。


男主人公は紙を懐に入れた。


「この家の情報漏れは、一人の裏切りだけではないかもしれない」


蓮司が聞く。


「じゃあ、どうする?」


男主人公は倉庫の外を見た。


「相手に、偽物の情報を渡す」


蓮司が目を見開く。


「餌を撒くのか?」


「そうです」


男主人公は答えた。


「本物を守るより、相手がどこまで情報を利用しているのかを見る」


その日の夕方。


族長の前に、男主人公は一枚の紙を置いた。


「明日、この家が大量の絹を買うという情報を流してください」


族長が紙を見る。


「本当に買うのか?」


「買いません」


族長が顔を上げる。


「なるほど」


族長は笑った。


「罠を仕掛けるつもりか」


「はい」


「もし相手が動かなければ?」


「その時は別の方法を考えます」


族長はしばらく男主人公を見た。


そして紙を燃やした。


「分かった」


炎が紙を包む。


「一度だけ、お前の方法を使ってやる」


男主人公は立ち上がった。


商売の勝負は、まだ始まったばかりだった。

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