第72章 商人の計算
夜になっても、屋敷の灯りは消えなかった。
広間には、族長と蓮司、数名の家族、それから男主人公たちが残っていた。
机の上には、ここ半年間の取引記録が並べられている。
族長は一枚ずつ確認していた。
「南の取引先との契約が三件」
蓮司が答える。
「全部、向こうから条件を変えられた」
「北の仕入れ先は?」
「こちらが買おうとした直前に、別の商家が先に買い占めた」
「倉庫は?」
「新しい倉庫を探していることを知られて、予定していた場所の周辺価格が上がった」
族長は黙った。
男主人公は記録を見ながら、あることに気づいた。
「族長」
「何だ」
「この家は、どれくらい損をしていますか?」
族長は顔を上げた。
「正確な数字を知りたいのか?」
「はい」
「なぜ?」
「相手が何を狙っているのか判断するためです」
族長は少し考えた。
「今年だけなら、すでに去年の利益の大半が消えている」
蓮司が驚く。
「そこまで?」
「表面上はな」
族長は別の帳簿を取り出した。
「実際には、もっと悪い」
蓮司が帳簿を見る。
「……借入まで使っているのか」
「商売を続けるためには必要だった」
族長は平然としていた。
「損失が出ても、利益が出る場所が残っていれば続ける。それが商売だ」
男主人公は帳簿を見た。
その言葉自体は理解できる。
だが、一つだけ不自然だった。
「族長」
「また何かあるのか?」
「この家は、全部の商売で負けているわけではありません」
族長の目が変わった。
「続けろ」
男主人公は三枚の帳簿を並べた。
「この三つは、利益が減っていない」
蓮司が覗き込む。
「……本当だ」
「むしろ、少し増えている」
族長は帳簿を取り上げた。
「これは?」
「遠方の小さな取引です」
「なぜここだけ?」
男主人公は答えなかった。
もう一度、別の資料を見る。
「情報が漏れているなら、全部の情報が漏れているわけじゃない」
「どういうことだ?」
「相手は、この家の情報を全部持っているわけではありません」
族長が黙る。
男主人公は続けた。
「知っているのは、この家が重要だと思っている情報だけです」
「……」
「つまり、誰かが情報を選んで渡している」
蓮司が言った。
「内部の人間が?」
「その可能性はある」
男主人公は首を振る。
「でも、それだけとは限りません」
族長が聞く。
「どういう意味だ?」
「今回の宝物です」
男主人公は、広間の隅に置かれている木箱を見た。
「相手が本当にこの家の内部情報を欲しがっているなら、わざわざ人間を買収する必要はありません」
「なら、どうする?」
「餌を置く」
族長の目が細くなる。
「宝物そのものを?」
「はい」
「それを見つけた人間が、家へ持ち帰る」
「そして鑑定する」
「その過程で、何が重要なのか分かる」
族長は腕を組んだ。
男主人公はさらに続けた。
「でも、それだけではありません」
「まだあるのか」
「この家が宝物を持ち帰ったことを知った相手が、次に何をするかを見る」
蓮司が考え込む。
「……つまり、俺たちがどの情報を調べるかまで見られている?」
「そうです」
族長はしばらく黙っていた。
やがて、机を指で二度叩いた。
「面白い」
男主人公を見る。
「お前は、この家の商売を救えると思っているのか?」
「まだ分かりません」
「正直だな」
「分からないことを分かったとは言えません」
族長は少し笑った。
「それは商人には向いていない答えだ」
「商人になるつもりはありません」
「そうか」
族長は帳簿を閉じた。
「では、何が欲しい?」
男主人公は一瞬だけ黙った。
ここで答える必要はない。
まだ、自分が欲しいものを族長に見せる必要もない。
「この家にある、古い品を一つ」
族長の表情が変わった。
「どんなものだ?」
「まだ分かりません」
「分からないのに欲しいのか?」
「探しています」
族長は男主人公をじっと見た。
商人の目だった。
相手が何を知っているのか。
何を知らないのか。
どこまで要求できるのか。
そのすべてを計算している。
「ならば、条件を出そう」
「聞きます」
「お前が、この家の損失を止める」
族長は淡々と言った。
「その代わり、私が価値のある品を一つ選ばせる」
蓮司が驚く。
「父上、本当に?」
族長は息子を見る。
「価値があるならな」
そして男主人公に向き直った。
「ただし、私が損をする取引はしない」
男主人公は頷いた。
「分かりました」
「それから」
族長は続けた。
「もしお前が失敗した場合、何も渡さない」
「それも分かりました」
「成功した場合でも、私が渡す価値は私が判断する」
男主人公は少し考えた。
「それでは困ります」
族長の眉が動いた。
「何が?」
「私が欲しいものを、族長が価値のないものだと判断する可能性があります」
「では、どうする?」
「品物は私が選びます」
族長は黙った。
男主人公も黙っている。
しばらくして、族長が笑った。
「……なるほど」
それは初めてだった。
族長が、男主人公を単なる客として見なかった瞬間だった。
「いいだろう」
族長は手を差し出した。
「商売をしよう」
男主人公はその手を握った。
その夜。
屋敷の外では、冷たい風が吹いていた。
男主人公は空を見上げる。
手紙に書かれていた。
ここへ来れば、自分が探しているものに近づける。
その意味はまだ分からない。
だが、一つだけ分かった。
この家が困っているからこそ、交渉できる。
そして族長が金だけを信じる人間なら――
金で解決できない問題を解決すればいい。
男主人公は屋敷の中を振り返った。
明日から、この家の商売を調べる。
宝物の正体。
漏れている情報。
損失を生み出している取引。
そして、それを利用している相手。
全部を一つずつ追う。
それが、次の取引の始まりだった。




