第七章 逃げるという選択
拳がぶつかった。
青年の身体が後ろへ吹き飛ぶ。
地面を何度も転がり、ようやく止まった。
「……っ」
口の中に鉄の味が広がった。
青年は立ち上がろうとした。
しかし、膝に力が入らない。
箱の表示が揺れている。
支援値――3.8
相手は。
82.9
差は、ほとんど変わっていない。
「まだやるか?」
男が歩いてくる。
青年は答えなかった。
視線だけを動かす。
道路。
工事現場。
駅。
逃げ道。
人。
警察。
そして、遠くに見える高架。
戦えば負ける。
それはもう分かっていた。
ならば。
逃げる。
それが一番合理的だった。
「……」
青年は立ち上がった。
男が構える。
しかし。
青年は男ではなく、反対方向へ走り出した。
「逃げるのか?」
背後から声が飛んでくる。
青年は答えない。
全力で走った。
足が痛い。
肺が苦しい。
それでも走る。
男が追ってくる。
速度は圧倒的だった。
数秒もしないうちに距離が縮まる。
青年は箱を見る。
周囲の情報が表示される。
高架。
地下道。
駅構内。
監視カメラ。
通信網。
そして。
地下施設。
「……ここだ」
青年は方向を変えた。
男が追ってくる。
「逃げても無駄だ!」
青年は地下道へ飛び込んだ。
階段を駆け下りる。
後ろから足音が迫る。
地下道には人がほとんどいない。
照明が一つ、また一つと消えていく。
青年は走りながら箱を開いた。
昨日見た数字とは違う表示が現れた。
接続率――3%
その下。
未登録施設――検索可能
「これか……」
青年は表示された方向へ走った。
地下道の奥。
古い壁がある。
何十年も使われていないような扉。
青年が触れる。
扉が開いた。
男の足音が近づいてくる。
「そこに何がある?」
青年は振り返らなかった。
扉の中へ入る。
扉が閉じた。
真っ暗だった。
青年は壁に手をついた。
すると。
古い照明が一つずつ点灯した。
地下施設。
広い。
壁には大量の機械が並んでいる。
中央には、一台の大きな装置。
そして。
その装置の前に。
一枚の写真が置かれていた。
青年は近づいた。
写真には。
曽祖父が写っている。
その隣に。
昨夜、箱から見た人物がいた。
未来から来たとされる人物。
しかし。
その人物の横に。
もう一人いた。
青年は息を呑んだ。
「……こいつ」
見覚えがあった。
男。
さっき戦った男。
写真の中に。
同じ顔が写っている。
「どういうことだ……?」
背後から声がした。
「やっぱり、ここだったか」
青年が振り返る。
男が立っていた。
しかし。
男は攻撃してこなかった。
「お前……」
「俺も、そこを探してた」
男は写真を見た。
そして。
初めて笑わなかった。
「その人間は、俺の先祖だ」
「……何?」
「正確には、俺の家系に残された記録の中に出てくる人物だ」
青年は写真を見た。
「じゃあ、お前も……」
「ああ」
男は頷いた。
「俺も、同じものを探してる」
「何を?」
男は中央の装置を指差した。
「答えだ」
「答え?」
「なぜ、俺たちの先祖は消えたのか」
青年は黙った。
その言葉。
自分が知りたかったことと同じだった。
男は続けた。
「俺の家にも記録があった」
「どんな?」
「ある文明が、突然消えた」
「……」
「戦争でもなかった」
「自然災害でもない」
「核兵器でもない」
男は写真を見た。
「ある日、都市の機能が全部止まった」
青年は息を呑んだ。
「エネルギー」
「通信」
「交通」
「金融」
「医療」
「工場」
「軍事システム」
男が一つずつ言う。
「全部だ」
「同時に?」
「ああ」
青年は昨夜の停電を思い出した。
街のすべてが一斉に消えた。
「……文明が止められた?」
「そうだ」
男は中央の装置を見た。
「俺は、それを誰がやったのか知りたい」
「お前は未来の人間と繋がっているんだろ?」
「繋がってる」
「なら聞けばいい」
「聞いた」
「答えは?」
男はしばらく黙った。
「知らないと言われた」
青年は眉を寄せた。
「未来の人間なのに?」
「だから疑ってる」
男は青年を見る。
「俺たちに力を与えている連中が、全部を知っているとは限らない」
「……」
「それに」
男は箱を見る。
「俺たちを見ている奴らも、一枚岩じゃない」
青年は少し驚いた。
「お前も知ってるのか」
「ああ」
「どこまで?」
「俺を応援している連中の中にも、俺が何をしているのか知らない奴がいる」
「当然だろ」
「いや」
男は首を振った。
「俺が知りたいのは、もっと先だ」
「何を?」
男は中央の装置へ歩いた。
そして。
手を置いた。
装置が起動する。
大量の文字が空中に浮かび上がった。
古い記録。
日付。
都市名。
人口。
そして最後に。
赤い文字。
文明終了処理――開始
青年の顔から血の気が引いた。
「……文明終了?」
「そうだ」
男が答える。
「俺たちの先祖は、こうやって消された」
青年は画面を見つめた。
そして。
その画面の一番下に。
新しい情報が表示された。
次回処理対象――
青年の住んでいる都市名。
男の表情が固まった。
「……嘘だろ」
青年は何も言えなかった。
さらにその下。
処理予定時刻が表示される。
――72時間後。
その瞬間。
青年の箱が震えた。
表示が変わる。
観測者数――126
そして。
新しいメッセージが一つだけ現れた。
「逃げてください。」
青年は画面を見つめた。
今度の声は。
これまでとは違っていた。
震えていた。
未来の誰かが。
本気で恐れていた。




