第六章 支援する理由
男の支援値は、まだ上がり続けていた。
79.2
青年はその数字を見ながら、ゆっくりと息を吐いた。
「……勝てないな」
数字だけを見れば、明らかだった。
自分の支援値は三程度。
相手は八十に近い。
単純に考えれば、十倍以上の差がある。
それでも。
青年は逃げなかった。
男が一歩踏み出す。
地面が沈んだ。
「もう分かっただろ」
男が言った。
「支援の差は、そう簡単には埋まらない」
「そうだな」
「なら、諦めろ」
「嫌だ」
即答だった。
男が笑った。
「なぜ?」
青年は答えなかった。
自分でも分からなかった。
勝てる保証などない。
逃げれば助かる可能性もある。
なのに。
今は逃げたくなかった。
昨日までなら、迷わず逃げていただろう。
自分は英雄ではない。
戦う理由もない。
誰かを守る義務もない。
それでも。
ここで逃げたら。
この男が何をするのか分からない。
そして何より。
未来で自分を見ている人間たちに、何も分からないまま負ける姿を見せたくなかった。
青年は拳を握った。
「俺は、自分が何者なのかまだ分からない」
男は黙って聞いている。
「未来って何なのかも分からない」
「……」
「お前が誰なのかも分からない」
青年は一歩前へ出た。
「でも、一つだけ分かってる」
「何だ?」
「俺の人生を、俺以外の誰かに決められたくない」
男の表情が変わった。
その瞬間。
遠い未来で、複数の画面に同じ言葉が表示された。
――支援しますか?
選択肢。
【はい】
【いいえ】
一人の女性が画面を見つめていた。
「……この人、何も知らないのに戦ってる」
隣の人物が答える。
「だから面白いんじゃない?」
「私は、そうは思わない」
「じゃあ、見るのをやめれば?」
女性は画面を消そうとした。
しかし、指が止まった。
「……もう少しだけ見る」
画面の中では。
青年が再び男へ向かって走っていた。
女性は小さく息を吐いた。
そして。
支援ボタンを押した。
――支援値+0.1。
その瞬間。
青年の身体がわずかに軽くなった。
青年は気づかなかった。
だが。
相手は気づいた。
「……また上がったな」
男の支援値も変化する。
79.2 → 81.6
男は笑った。
「俺の方も増えた」
「……」
「お前が面白いと思われるほど、俺も面白いらしい」
「そういうことか」
青年は理解した。
未来の人間たちは、どちらか一方だけを応援しているわけではない。
自分を応援する人間もいる。
相手を応援する人間もいる。
ただ見ている人間もいる。
そして。
誰が勝つかを予想している人間もいる。
つまり。
この戦いそのものが。
未来では一つの娯楽になっている。
青年の顔から笑みが消えた。
「……最低だな」
男が眉を上げる。
「何が?」
「俺たちは本気で殴り合ってる」
「そうだな」
「死ぬかもしれない」
「そうだな」
「なのに、向こうでは楽しんでる」
男は少し考えた。
「それの何が悪い?」
「……何?」
「俺たちだって、スポーツを見るだろ」
「それとは違う」
「何が違う?」
青年は答えられなかった。
男は笑った。
「俺たちには、本当に死ぬ可能性がある」
「そうだ」
「だからこそ、向こうは見たいんじゃないか?」
青年は黙った。
確かに。
その言葉を否定できなかった。
人間は昔から、危険なものを見てきた。
戦い。
競争。
事故。
災害。
誰かの人生。
それを見て、興奮することもある。
青年は拳を握った。
「……でも」
「何だ?」
「俺は、誰かの娯楽になるために戦ってるんじゃない」
男は笑った。
「なら、勝って自分の人生を取り戻せ」
次の瞬間。
男が消えた。
青年は身構えた。
右。
違う。
左。
上。
見えない。
――ドンッ!
腹に衝撃が入った。
「ぐっ!」
青年の身体が宙に浮く。
そのまま建物の壁へ叩きつけられた。
息ができない。
視界が揺れる。
男が歩いてくる。
「終わりだ」
青年は立ち上がろうとした。
足が震える。
力が入らない。
箱の表示が赤く点滅する。
支援値――3.6
敵。
82.4
差はまだ大きい。
青年は笑った。
「……そう簡単にはいかないか」
その時。
箱の表示が変わった。
特殊条件を確認。
青年は目を細めた。
「特殊条件?」
新しい文字が表示される。
支援者の総意――不一致。
「……何だ、それ」
その直後。
支援値が急激に揺れ始めた。
3.6。
3.4。
3.9。
4.1。
3.7。
数字が安定しない。
青年は困惑した。
未来では。
観客たちが互いに議論していた。
「この人を勝たせよう」
「いや、まだ敵の方が面白い」
「この青年には力を与えすぎない方がいい」
「どうして?」
「強くなりすぎたら、番組がつまらなくなる」
「逆だよ。強くなった方が面白い」
「私は死なせたくない」
「それなら支援すればいい」
「でも、私たちが介入していいの?」
最後の言葉に。
誰も答えなかった。
青年は、その声を聞いていない。
しかし。
箱は、未来の「迷い」だけを拾っていた。
そして初めて。
支援が単純な数字ではないことを示し始めた。
青年はゆっくり立ち上がった。
血を拭う。
そして男を見る。
「まだ終わってない」
男は構えた。
「その状態で?」
「そうだ」
青年は拳を握る。
「俺には、俺を見てる奴らがいる」
少しだけ笑った。
「その中には、俺を死なせたくない奴もいるらしい」
男も笑った。
「なら、そいつらの期待に応えてみろ」
二人は同時に走り出した。
拳がぶつかる。
轟音が街を揺らす。
そして遠い未来では。
これまでただ画面を見ていただけだった一人の観客が、初めて立ち上がった。
「……どうして、私たちが人の人生を決めてるの?」
その問いは。
まだ小さかった。
だが。
それは後に。
未来そのものを揺るがす最初の疑問になる。




