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観客のいない世界  作者: 亀


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第54章 商人の娘

町を出てから、二時間ほど歩いた。


教えられた住所は、山の斜面にある小さな集落だった。


家は十軒ほどしかない。


道の両側には畑があり、ところどころに古い石垣が残っている。


「ここだ」


男が足を止めた。


目の前に、古い木造の家があった。


屋根は何度か修理されたらしく、瓦の色が場所によって違っている。


男主が扉を叩いた。


しばらくして、中から女の声がした。


「どなたですか?」


「少し聞きたいことがあります」


「何について?」


男主は一瞬迷った。


「十八年前のことです」


中が静かになった。


やがて扉が開く。


三十代くらいの女が立っていた。


男の顔を見た瞬間、女の表情が変わった。


「……あなた」


男も女を見ていた。


「知っているのか?」


女はすぐには答えなかった。


「昔、父から聞きました」


「俺のことを?」


「あなたの家のことを」


女は三人を家の中へ入れた。


部屋は狭かった。


棚には古い本が並んでいる。


壁には農具が掛けられていた。


「父は、何を知っていた?」


男が尋ねた。


女は湯を沸かしながら答えた。


「私も全部は知りません」


「でも、何か知っている」


「はい」


女は三人の前に茶を置いた。


「父は亡くなる前に、一度だけ話しました」


「何を?」


「十八年前、自分は間違った取引をした、と」


男の目が細くなった。


「どんな取引だ?」


「分かりません」


「知らない?」


「父は最後まで詳しく話しませんでした」


女は少し考えてから続けた。


「ただ、何かを運ぶ仕事だったと言っていました」


男主と直人が顔を見合わせる。


「何を運んだ?」


「それも知りません」


「では、なぜ間違った取引だと思ったんですか?」


女は棚から古い箱を取り出した。


「父が残したものです」


箱の中には、何枚かの手紙が入っていた。


女はその中から一枚を取り出す。


「これだけは、私にも見せてくれました」


男主が受け取った。


紙には短い文章しかない。


《三日前に話した件について、予定どおり進める》


その下に、名前があった。


復讐相手の家の族長。


男の顔が強張った。


「これを……父親が書いたのか?」


「はい」


「他には?」


「もう一枚あります」


女は別の紙を出した。


そこには、別の名前が書かれていた。


男主はその名前を見て、息を止めた。


祖先の名前だった。


「どうして……」


直人も紙を覗き込む。


「また出てきたな」


男は立ち上がった。


「この二人は、知り合いだったのか?」


「分かりません」


女は答えた。


「父も詳しく話していません」


男主は紙を見つめた。


祖先の名前。


復讐相手の家。


そして、十八年前の三日前。


昨日まで点だったものが、少しずつ近づいている。


だが、まだ線にはなっていない。


「この手紙、どこにあった?」


「父の机です」


「他には?」


女は首を横に振った。


「これだけです」


男は黙っていた。


しばらくして、女が言った。


「あなたは、あの家の人ですよね」


「そうだ」


「父は、あなたの家が襲われたことを後悔していました」


男は女を見る。


「後悔?」


「はい」


「自分が殺したわけじゃない」


「それでもです」


女は少し俯いた。


「父は、あの取引に関わったことで、多くの人が死んだと言っていました」


男の手が震えた。


「なら、なぜ何もしなかった?」


女は答えられなかった。


「怖かったんだと思います」


男はしばらく黙っていた。


「……そうか」


それだけだった。


男主は手紙をもう一度確認した。


文章の最後に、もう一つ小さな印がある。


あの金属片に刻まれていたものと同じ印。


「これも……」


男はそれに気づいた。


「その印、何だ?」


「まだ分かりません」


男主は答えた。


「でも、祖先の資料に何度も出ています」


女が言った。


「父も、その印を見ていました」


「何と言っていましたか?」


「覚えていません」


女は少し考えた。


「ただ……」


「ただ?」


「『これは人間同士の取引じゃない』と」


部屋が静かになった。


男主は顔を上げた。


だが、それ以上は聞かなかった。


まだ、ここで結論を出すには情報が足りない。


「この手紙を借りてもいいですか?」


女は頷いた。


「構いません」


男は驚いた顔をした。


「いいのか?」


「父が残したものです」


女は箱を閉じた。


「でも、父が何をしていたのか、私も知りたいので」


男主は手紙を丁寧にしまった。


「必ず返します」


「お願いします」


三人が家を出る。


山道を下りながら、直人が言った。


「だんだん変な話になってきたな」


男主は手紙を見た。


「まだ何も分かっていない」


「でも、祖先の名前が出てきた」


「ああ」


前を歩いていた男が振り返った。


「俺は、あいつを殺す」


男主は黙って聞いた。


「でも、その前に知りたい」


「何を?」


「俺の家が、なぜ狙われたのか」


男はそう言って、また歩き始めた。


十八年間、復讐だけを追っていた男の中に、別の疑問が生まれ始めていた。

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