第52章 扉の向こう
「まだ生きていたのか」
扉の向こうから、もう一度声がした。
男は動かなかった。
拳だけが、わずかに震えている。
直人が小声で聞いた。
「こいつが……?」
男は答えなかった。
男主は窓の隙間から外を見た。
馬車の横に三人いる。
一人は御者。
二人は武器を持っていた。
そして馬車の中には、もう一人。
「四人か」
男が振り返った。
「五人だ」
「中に?」
「あいつは一人では来ない」
そのとき、扉が強く叩かれた。
「開けろ」
今度の声には笑いが混じっていた。
「昔のことを話しに来ただけだ」
男の顔が歪んだ。
「嘘だ」
「何が?」
「俺を殺しに来た」
外から笑い声が聞こえた。
「十八年経っても、頭は悪くないらしいな」
直人が男主を見る。
「どうする?」
男主は窓から外を見た。
「まず、相手の人数と位置を確認する」
「戦うのか?」
「分からない」
男主は部屋の中を見回した。
出口は一つ。
窓は狭い。
逃げるなら裏手しかない。
そのとき、男が言った。
「逃げるな」
男主が振り返る。
「俺は逃げない」
「でも、勝てるとは限らない」
「知っている」
男は箱の一つを開けた。
中から短い刃物を取り出した。
手が震えている。
刃を握るだけで、呼吸が乱れていた。
直人が見た。
「怖いのか?」
「怖い」
男は即答した。
「当たり前だ」
そして、刃物を握り直した。
「十八年も怖かった」
扉の向こうから声がする。
「おい」
「そろそろ開けろ」
「昔の家のことを覚えているか?」
男の呼吸が止まった。
「俺たちは覚えているぞ」
その瞬間、男が扉へ向かおうとした。
男主が腕を掴む。
「待ってください」
「離せ」
「一人で行けば殺される」
「それでもいい」
「あなたは復讐したいんでしょう」
男が止まった。
男主は続けた。
「死ぬだけなら簡単です」
「……」
「でも、あなたが欲しいのは、それじゃない」
男は何も言わなかった。
しばらくして、ゆっくり座った。
「そうだ」
その声は小さかった。
「俺は、死にたいんじゃない」
男主は頷いた。
「なら、今は開けない」
直人が窓の外を指した。
「一人、裏に回った」
男主は頷いた。
「予定通りだ」
「予定?」
「最初から逃げ道を作る」
男は驚いた顔をした。
男主は窓を開けた。
裏には古い薪置き場がある。
その先は林だった。
「行けます」
「俺は逃げないと言った」
「逃げるんじゃありません」
男主は男を見た。
「場所を変えるだけです」
男は少し考えた。
そして立ち上がった。
三人は裏口から出た。
林を抜ける。
その直後、表から扉が破られる音が聞こえた。
「いたぞ!」
声が響く。
男は走っていた。
速くはない。
何度も転びそうになる。
それでも止まらない。
しばらくして、小さな川に出た。
男主は手を上げた。
「ここで止まって」
三人は木の陰に隠れた。
数分後。
追手が林から出てきた。
五人。
男主は数を確認した。
「一人足りない」
直人が言った。
「裏に回った奴?」
「たぶん」
男は刃物を握ったまま、震えている。
「どうする?」
「待つ」
「待つ?」
「あいつらは俺たちが南へ逃げたと思っている」
男主は川の上流を見る。
「だから、北へ行く」
直人が笑った。
「また逃げるんだな」
「そうだ」
男主は歩き始めた。
「今はな」
三人は川沿いを上流へ進んだ。
一時間ほど歩いたところで、古い小屋を見つけた。
誰も住んでいない。
中に入ると、男はその場に座り込んだ。
「情けないな」
「何が?」
「十八年も復讐を考えてきたのに」
男は自分の手を見る。
「本人を目の前にしたら、足が動かなかった」
男主は答えなかった。
直人が水を渡した。
男は一口飲んだ。
「でも、分かった」
「何が?」
「俺一人では無理だ」
男は男主を見る。
「だから契約した」
男主は頷いた。
「そうですね」
「俺は、お前を利用する」
「俺もあなたを利用します」
男は少し笑った。
「それでいい」
二人はしばらく黙っていた。
その後、男主は箱から持ち出した資料を開いた。
先ほど見つけた取引記録。
そこには三つの名前がある。
祖先。
男の家。
そして、復讐相手。
男主はその下にある小さな数字を指差した。
「ここ」
「何だ?」
「日付です」
「……」
「あなたの家が襲われる三日前」
男の顔から笑みが消えた。
「つまり」
直人が言った。
「襲撃より前から、何かが動いていた?」
男主は紙を見つめた。
「そうかもしれない」
男はゆっくり立ち上がった。
「なら、あいつに聞く」
「何を?」
「十八年前の三日間に、何をしていたのか」
男は刃物を握り直した。
今度は、手が少しだけ止まっていた。
「殺す前に」
そう言った。
「全部聞く」




