第51章 十八年分の箱
翌朝。
男主が目を覚ましたとき、外はまだ薄暗かった。
昨夜泊まった宿の窓を開けると、冷たい空気が入ってきた。
直人はまだ寝ている。
男主は一人で階段を下り、宿の主人から簡単な朝食を買った。
焼いたパンと、温かいスープ。
それを持って部屋に戻る。
「起きろ」
「……まだ早い」
「約束がある」
直人は布団の中から顔だけを出した。
「昨日の人?」
「ああ」
「朝から復讐の話か」
「たぶん」
直人はため息をつきながら起き上がった。
「せめて食ってからにしよう」
二人は黙って朝食を済ませた。
昨日の男の家に着いたのは、その一時間後だった。
扉を叩く。
今度はすぐに開いた。
「来たか」
男はすでに準備を終えていた。
机の上には、古い箱が三つ並べられている。
一つ目は木箱。
二つ目は布で包まれている。
三つ目は、錆びた金具で閉じられていた。
「これが全部?」
「全部じゃない」
男は言った。
「全部持ってきたら、この部屋に入らない」
「他にもあるのか?」
「隠してある」
男は木箱を開けた。
中には大量の紙が入っていた。
帳簿。
手紙。
名前の一覧。
取引記録。
古い地図。
そして、人の顔を描いた小さな絵。
直人が一枚を手に取った。
「これ、全部あいつのこと?」
「違う」
男は答えた。
「最初の十年分は、ほとんど関係ない」
「じゃあ、何を調べていたんですか?」
「人だ」
「人?」
「あいつに近づくには、あいつの周りにいる人間を知らなきゃならない」
男は一枚ずつ紙を分けていった。
「商人」
「運送屋」
「役人」
「土匪」
「用心棒」
「昔の取引相手」
「それから、俺の家と関係していた人間」
机の上が紙で埋まっていく。
男主はその中から一枚を拾った。
そこには、見覚えのある印があった。
「これ……」
「何だ?」
「祖先の印です」
男が手を止めた。
「本当か?」
「ああ」
紙の端に、小さな記号が残っていた。
昨日見たものと同じだった。
「これはいつの記録ですか?」
「分からない」
「分からない?」
「紙だけ手に入れた」
男は言った。
「書いた人間は死んでいる」
「どこで手に入れたんですか?」
「昔の倉庫」
男主は紙を裏返した。
裏には数字が並んでいた。
直人が覗き込む。
「これ、日付じゃない?」
男主も気づいた。
いくつかの数字の並びが、他の記録と一致している。
「取引の日か」
「たぶん」
男はしばらく紙を見つめていた。
「その印、何なんだ?」
「まだ分かりません」
「お前の祖先は、何をしていた?」
男主は少し考えた。
「それを調べています」
「そうか」
男はそれ以上聞かなかった。
それから二人は箱の中身を確認していった。
昼になった。
それでも、箱は空にならない。
男は一枚の記録を取り出した。
「これを見ろ」
そこには、十八年前の取引記録があった。
名前が二つ。
一つは男の家。
もう一つは、復讐相手の家だった。
その下に、別の名前がある。
男主はその名前を見た瞬間、手を止めた。
「……これ」
「知っているのか?」
「祖先の資料にあった」
「そうか」
三つの名前が、一つの記録の中に並んでいた。
男主の祖先。
目の前の男の家。
そして、復讐相手。
だが、それだけではなかった。
記録の端に、別の文字が残されている。
《運搬完了》
直人が言った。
「これ、昨日の手帳と同じじゃないか?」
男主は頷いた。
「たぶん」
「何を運んだんだ?」
「そこまでは書いてない」
男は机に手を置いた。
「俺も、それをずっと調べてきた」
「何か分かったんですか?」
「一つだけ」
男は箱の底から、古い金属片を取り出した。
昨日見たものとは違う。
もっと小さい。
表面には同じ印が刻まれている。
「これを持っていた人間がいた」
「誰ですか?」
「分からない」
「じゃあ、どうして?」
「十八年前の夜、俺の家が襲われる前に、そいつが来ていた」
部屋の空気が変わった。
男主は金属片を見つめた。
「その人が、家の中に何かを探しに来た?」
「たぶん」
「何を?」
「分からない」
男は答えた。
「でも、襲撃のあと、これだけが残っていた」
「つまり……」
直人が言った。
「家を襲った連中も、何かを探していた?」
男は首を振った。
「そこまでは断定できない」
意外な答えだった。
男主は男を見る。
十八年間、復讐だけを考えてきた人間。
それでも、分からないことを分からないと言った。
「だから調べている」
男は金属片を机に置いた。
「俺はあいつを殺したい」
声は静かだった。
「でも、何が起きたのかも知りたい」
男主は黙っていた。
そのとき、外から馬車の音が聞こえた。
三人とも窓を見た。
一台の馬車が、家の前で止まった。
男の表情が変わった。
「……早いな」
「誰?」
直人が聞いた。
男は答えなかった。
代わりに箱を閉じた。
「見つかった」
「誰に?」
男は立ち上がった。
「俺が十八年間探していた相手にだ」
外で、扉を叩く音がした。
一度。
二度。
三度。
そして、男の名前を呼ぶ声が響いた。
「まだ生きていたのか」
男は拳を握った。
しかし、足は動かなかった。
十八年間待ち続けた相手が、すぐ扉の向こうにいる。
それでも男は、扉を開けられなかった。




