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観客のいない世界  作者: 亀


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第50章 残された一人

古い住所を離れてから、二人はしばらく歩いた。


夕方の町には、人の声が戻っていた。


店先では主人が商品を並べている。


道の向こうでは、子供たちが走っている。


男は歩きながら、さっき見せてもらった手帳のことを考えていた。


数字。


祖先の名前。


そして、第二接続。


まだ何も分からない。


ただ、祖先が一人で動いていたわけではないことだけは分かってきた。


「次はどこへ行く?」


直人が聞いた。


男は資料を開いた。


「この住所」


「また?」


「ああ。ただし、今度は別の人だ」


資料には、短い記録しかなかった。


名前。


以前の職業。


そして、その横に一言。


《契約関係、消滅》


直人が眉を寄せた。


「消滅って、人が死んだってこと?」


「分からない」


男は紙を裏返した。


「だから行く」


翌日。


二人は山間の小さな町に着いた。


目的の人物は、町の外れにある古い小屋で暮らしていた。


男は扉を叩いた。


返事はない。


もう一度叩く。


「誰だ」


中から声がした。


「少し話を聞きたいんですが」


「帰れ」


「あなたが以前――」


「帰れと言った」


男は黙った。


直人が小声で言う。


「かなり警戒してるな」


「そうみたいだ」


男は資料から一枚の紙を取り出した。


扉の前に置く。


「この名前を知っていますか?」


中の音が止まった。


しばらくして、扉が少しだけ開いた。


隙間から男が顔を出した。


年齢は四十代くらい。


痩せている。


服も古い。


男の持っている紙を見ると、顔色が変わった。


「……どこで手に入れた」


「祖先の資料です」


「祖先?」


「以前、この町にいた人物です」


男はしばらく黙っていた。


そして扉を開けた。


「入れ」


中にはほとんど家具がなかった。


小さな机と椅子。


古い寝具。


壁際に積まれた箱。


男は椅子に座らず、立ったまま尋ねた。


「あなたは祖先と取引していたんですか?」


「昔はな」


「何を?」


「物だ」


「何の物ですか?」


男は答えなかった。


代わりに窓の外を見た。


「お前、あの家の人間か?」


「はい」


「そうか」


男は苦笑した。


「遅かったな」


「何がですか?」


「お前が来るのがだ」


男は意味が分からなかった。


「祖先について、何か知っているんですか?」


「少しだけだ」


「教えてください」


「ただでは話せない」


直人が男を見る。


「また条件?」


「当然だろ」


男は椅子に座った。


「俺はもう何も持っていない」


その言葉に、男は黙った。


「家もない。金もない。仕事もない」


男は続けた。


「でも、一つだけ残っている」


「何が?」


男は自分の胸を指した。


「名前だ」


それから、少しだけ笑った。


「俺の家を潰した奴の名前もな」


男は顔を上げた。


「家?」


「そうだ」


その男の声が、初めて変わった。


「俺の家は昔、この辺じゃそれなりの家だった」


商売もしていた。


土地もあった。


人も雇っていた。


そして、ある女がいた。


男はその女の名前を告げた。


直人が資料を見る。


その名前は、どこにも書かれていなかった。


「その女が何か?」


「俺の家の人間だった」


「家族?」


「そういう意味じゃない」


男は少し考えた。


「昔から、うちの家と関係の深い女だった。知識もあった。技術もあった。人脈もあった」


そして、別の家の男がその女に目をつけた。


「そいつは何をしたんですか?」


「欲しがった」


「女を?」


「女も。女が持っていたものも」


男は淡々と話した。


「最初は金を出した。次に取引を持ちかけた。それでも駄目だった」


「それで?」


「最後は、俺の家を消した」


部屋が静かになった。


「どうやって?」


「土匪を使った」


それだけだった。


男は机の上に手を置いた。


「夜だった。家に火をつけられた」


「……」


「逃げようとした人間は殺された」


「その女は?」


「連れて行かれた」


男はそこで口を閉じた。


しばらくして、男は言った。


「俺だけが残った」


「なぜ?」


「分からない」


「どうして助かったんですか?」


「偶然だ」


男は自分の手を見た。


「俺はその夜、家にいなかった」


「戻ってきたときには?」


「全部なくなっていた」


直人が何も言えなくなった。


男は男主を見た。


「俺は、それからずっと探している」


「何を?」


「そいつを」


「復讐するために?」


「そうだ」


即答だった。


迷いはなかった。


「何年ですか?」


「十八年」


男は答えた。


「十八年間、一度も忘れたことはない」


男主はその顔を見た。


怒っているようには見えなかった。


泣いているわけでもない。


ただ、そこだけが異常なほど静かだった。


「今、その相手は?」


「生きている」


「どこに?」


「この町から三日ほど離れたところだ」


「じゃあ、なぜ殺さない?」


男は初めて目を伏せた。


「一人では無理だからだ」


「……」


「俺は弱い」


その言葉に、恥じらいはなかった。


「戦えない。金もない。人もいない」


そして男は、目の前に一枚の紙を置いた。


「だから、お前に頼みたい」


紙には、別の名前が書かれていた。


祖先が残した資料の中にも、その名前があった。


男はその名前を見つめた。


「この人間を倒すのを手伝ってくれ」


「その代わりに?」


「俺が知っていることを全部話す」


男は紙を手に取った。


「祖先のことも?」


「知っている範囲ならな」


「証拠は?」


男は奥の箱を指した。


「ある」


「何が入ってる?」


「十八年間、集めたものだ」


男は少しだけ笑った。


「俺の人生そのものだ」


男主は箱を見た。


そして、その中に祖先の名前があることを確認した。


「分かった」


男が顔を上げる。


「協力する」


「本当に?」


「ああ」


男主は紙を折った。


「ただし、俺はあなたの復讐のために生きているわけじゃない」


「分かっている」


「俺は祖先のことを知りたい」


「それでいい」


二人の目的は違っていた。


だからこそ、話はまとまった。


男は立ち上がった。


「なら、明日から始めよう」


「何を?」


男は窓の外を見た。


「十八年間、俺が集めたものを見せる」


その声だけは、今までより少し強かった。


「その中には、あいつを殺すために使えるものもある」


そして、男主の祖先が残した名前もあった。

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