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観客のいない世界  作者: 亀


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第四十章 数字の向こう側

 翌朝。


 女性が管理室へ入ると、すでに数人が集まっていた。


 中央の大型画面には、複数のプロジェクトの推移が並んでいる。


 その中で。


 一つだけ、明らかに動きが違っていた。


 青年を中心としたプロジェクト。


 視聴時間は前日より増えている。


 新規視聴者も増えている。


 そして。


 他のプロジェクトから移動してきた視聴者の割合も、少しずつ上昇していた。


「また伸びました」


 担当者が報告する。


「どれくらい?」


「前日比で八・七パーセント」


「介入は?」


「ありません」


「広告は?」


「通常設定です」


「特別報酬は?」


「なし」


 女性は画面を見た。


「つまり、何も追加していない」


「はい」


 別の担当者が言った。


「むしろ、こちらからの介入量は減っています」


「それでも伸びている」


「そういうことになります」


 女性は椅子に座った。


「他のプロジェクトは?」


「一部で下落しています」


「理由は?」


「視聴者の移動です」


「どこへ?」


 担当者が画面を切り替える。


 複数の線が交差していた。


「こちらです」


 青年のプロジェクトへ。


 女性は黙った。


     *


 同じ頃。


 青年は市場にいた。


「今日は何を買うんです?」


 直人が聞く。


「決めてない」


「昨日もそうでしたよ」


「今日は本当に決めてない」


 二人は人の流れに沿って歩いた。


 魚を売る店。


 野菜を並べる店。


 古い道具を修理する店。


 子ども向けの商品を売る店。


 青年は。


 しばらく眺めていた。


 そして。


 一軒の店の前で止まった。


「これ」


「何です?」


「鍋」


「買うんですか?」


「たぶん」


「たぶん?」


「今、必要だから」


 青年は鍋を買った。


 理由は。


 それ以上なかった。


 未来の観客の中には。


 その場面を見て笑う者もいた。


 しかし。


 コメントの流れは。


 少し変わっていた。


 ――何で鍋?


 ――このあと何か作るのか?


 ――いや、たぶん何もない。


 ――でも、こういう買い物を見るのは悪くない。


 ――分かる。


 青年は。


 そんなことを知らない。


 鍋を抱えたまま。


 市場を出た。


     *


 管理室。


「またですね」


 担当者が言った。


「何が?」


「観客の滞在理由です」


 女性は画面を見る。


「以前は、事件が起きる前後に滞在時間が伸びていました」


「はい」


「今は?」


「何も起きていない時間にも伸びています」


「特に?」


「移動中です」


「移動?」


「はい」


 画面には。


 青年と直人が歩く映像。


 ただ歩いている。


 会話も少ない。


 事件もない。


 戦闘もない。


 それでも。


 視聴者は離れない。


「理由を分類して」


「すでにやっています」


「結果は?」


 担当者が答える。


「分かりません」


 女性は少しだけ笑った。


「正直でいい」


「ただ、一つだけ傾向があります」


「何?」


「観客が青年の行動を予測しようとしている」


「昨日もあった」


「今日はさらに増えています」


「つまり?」


「観客同士で予測を競っています」


 女性は。


 画面を見つめた。


 そこで。


 一つの可能性に気づいた。


「物語を見ているんじゃない」


 担当者が振り向く。


「では?」


「参加している」


     *


 午後。


 青年たちは宿へ戻った。


 買った鍋を机の上に置く。


「何を作るんです?」


「分からない」


「また?」


「買ったからには使うだろ」


「じゃあ、何を?」


 青年は。


 鍋を見る。


 しばらく考える。


「今日は使わない」


 直人が黙る。


「……じゃあ、何のために買ったんです?」


「分からない」


 二人は顔を見合わせた。


 そして。


 同時に笑った。


     *


 その映像が。


 未来へ送られる。


 コメントが一気に増えた。


 ――買ったのに使わない。


 ――予想外だった。


 ――明日使うかもしれない。


 ――使わないと思う。


 ――いや、絶対使う。


 ――賭けよう。


 女性は。


 その流れを見ていた。


「賭け?」


「非公式な観客間ゲームです」


「禁止されてないの?」


「金銭を伴わない予測遊びなら問題ありません」


「そう」


 女性は。


 少し考えた。


「参加者数は?」


「増えています」


「どれくらい?」


「現在、全視聴者の三十六パーセント」


 女性は黙った。


 観客は。


 青年の行動を見るだけではなく。


 次の行動を予測し始めている。


 そして。


 予測が外れることそのものを楽しんでいる。


「なるほど……」


 女性は。


 画面を拡大した。


「このプロジェクトは」


 誰に向かって言うでもなく。


「観客に答えを与えることで成立しているんじゃない」


 彼女は。


 青年が鍋を机に置いた映像を見る。


「答えがないから成立している」


     *


 夕方。


 女性の端末に通知が入った。


 別のプロジェクト管理責任者からだった。


 ――少し時間をもらえますか。


 女性は返信した。


 ――何についてですか。


 数秒後。


 返事が来る。


 ――あなたのプロジェクトについてです。


 女性は。


 画面を見つめた。


 続けて。


 もう一通。


 ――こちらの視聴者が減っています。


 そして。


 最後の一文。


 ――原因を確認したい。


 女性は。


 端末を閉じた。


 まだ何も始まっていない。


 ただ。


 これまで存在しなかった問題が。


 数字として現れ始めていた。


 誰かの成功は。


 別の誰かにとって。


 資源の減少になる。


 それは。


 この組織では珍しいことではない。


 女性は立ち上がった。


「会いましょう」


 返信する。


 そして。


 もう一度だけ。


 青年の映像を見た。


 鍋は。


 まだ机の上に置かれている。


 使われていない。


 その何でもない光景を見ながら。


 女性は初めて。


 自分のプロジェクトが。


 単純な「成功」では済まなくなる可能性を考えた。


 視聴者が増える。


 資源が集まる。


 他のプロジェクトから。


 人が移ってくる。


 そして。


 組織の中で。


 数字がぶつかり始める。


 女性は。


 静かに端末を閉じた。


 次に必要なのは。


 観客の分析だけではない。


 この成功を、組織の中でどう扱うか。

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