第三十六章 戻ってきた日常
観測所を離れてから。
三日が過ぎた。
青年は、特別なことをしていなかった。
朝起きる。
簡単な食事をする。
街を歩く。
必要なものを買う。
直人と連絡を取る。
夜になれば眠る。
あの地下施設で見たものについても。
意識して考えないようにしていた。
第一記録者。
古い観測装置。
未来からの視線。
そして、自分自身が何者なのかという問題。
どれも。
すぐに答えが出るものではない。
だから。
青年は、一度それらを脇に置いた。
目の前の生活を続けることにした。
「今日はどこへ行く?」
直人が聞いた。
「特に決めてない」
「じゃあ、駅の向こう側に行ってみませんか」
「何かある?」
「大きな市場があるらしいです」
「それなら行こう」
二人は歩き始めた。
*
市場は。
思っていたより大きかった。
野菜。
魚。
衣服。
日用品。
小さな食堂。
古い店。
新しい店。
人が多い。
しかし。
何か特別な事件が起きるわけではない。
店員が客と値段について話している。
子供が母親の手を引いている。
老人が椅子に座って休んでいる。
青年は。
しばらくその光景を見ていた。
「何を見てるんです?」
「分からない」
「分からない?」
「ただ、人が多いなと思って」
直人が笑った。
「観測所に行ってから、そういうことばかり言いますね」
「そうか?」
「はい」
青年も。
少し笑った。
そのとき。
店の前で。
一人の少年が転んだ。
持っていた袋から。
果物がいくつか転がる。
少年は。
泣きそうな顔をした。
青年は。
近くに落ちた果物を拾った。
「ほら」
「……ありがとう」
「気をつけろよ」
「うん」
少年は。
果物を受け取って走っていった。
それだけだった。
青年たちは。
また歩き始めた。
*
未来。
管理室。
女性の前に。
一つの画面が開いていた。
そこには。
市場の映像が映っている。
「この映像」
部下が言う。
「昨日から視聴数が増えています」
「どの程度?」
「通常の生活記録と比較して、約一・七倍です」
「事件は?」
「ありません」
「戦闘は?」
「ありません」
「新しい情報?」
「特にありません」
女性は。
画面を見た。
青年が歩いている。
直人と話している。
店の商品を見る。
少年に果物を渡す。
そして。
また歩いている。
「これだけ?」
「はい」
「視聴者の反応は?」
部下が。
別の画面を開いた。
そこには。
大量のコメントが並んでいる。
――何も起きない。
――でも見てしまう。
――今日は何を買うんだろう。
――あの店に入るのかな。
――少年に話しかけた。
――あの二人、今日はどこへ行くんだろう。
――何か起きそうで起きない。
女性は。
画面を見ながら。
しばらく黙っていた。
「この反応」
「はい」
「以前とは違う」
「私もそう思います」
以前の視聴者は。
青年が危険な場所へ行ったときに増えた。
敵と遭遇したとき。
戦闘が起きたとき。
未来の情報に触れたとき。
つまり。
何かが起きたときだった。
しかし。
今は違う。
何も起きていない。
それでも。
人が見ている。
*
「理由は?」
女性が聞いた。
「まだ分かりません」
「予測モデルは?」
「通常の範囲から外れています」
「どの程度?」
「今回の視聴増加を、事件発生率では説明できません」
女性は。
もう一度映像を見る。
市場。
少年。
青年。
直人。
普通の一日。
それだけだ。
「対象本人は?」
「視聴されていることを意識している可能性があります」
「意識的に演じている?」
「今のところ、その兆候はありません」
「なら」
女性は。
画面を閉じなかった。
「まだ触らないで」
「介入しない?」
「そう」
「理由は?」
女性は。
一瞬考えた。
「今、余計なことをすると」
市場の映像を見る。
「この数字が何を意味しているのか分からなくなる」
部下は。
黙って頷いた。
*
その日の夜。
青年は。
宿に戻った。
机の上に。
買ってきたパンを置く。
直人は。
椅子に座った。
「今日は平和でしたね」
「ああ」
「最近、こういう日が多いですね」
「そうだな」
「前なら、何か起きると思っていました」
青年は。
パンを一つ手に取った。
「俺も」
「でも、何も起きない」
「何も起きない日もある」
直人が笑う。
「それを言えるようになったの、観測所に行ってからですよ」
「そうか?」
「そうですよ」
青年は。
少し考えた。
そして。
窓の外を見る。
街の明かり。
遠くの車。
人の声。
どこかの店から聞こえる音楽。
それだけだった。
未来では。
今この瞬間も。
誰かが見ているかもしれない。
しかし。
青年には。
そのことを確認する方法がない。
だから。
気にしないことにした。
パンを食べる。
水を飲む。
そして。
明日のことを考える。
それだけだった。
*
同じ時間。
未来の管理室では。
視聴者数がさらに増えていた。
女性は。
数字を見ながら。
別のプロジェクトの資料を開いた。
戦闘型プロジェクト。
高刺激型。
短時間集中型。
政治交渉型。
恋愛観察型。
災害再現型。
どれも。
明確な目的を持って設計されている。
観客を引きつける仕組みも。
ほぼ完成している。
しかし。
今。
最も安定して伸びているのは。
そのどれでもなかった。
ただの一人の人間が。
市場を歩いている。
女性は。
データを比較した。
平均視聴時間。
上昇。
離脱率。
低下。
新規視聴者。
増加。
そして。
再訪率。
これも高い。
「……何を見に来ているの?」
誰に向けたわけでもなく。
女性は呟いた。
青年そのものなのか。
青年の未来なのか。
青年の周囲にいる人間なのか。
それとも。
何も起きない時間そのものなのか。
まだ分からない。
しかし。
一つだけ。
以前とは違うことがあった。
観客は。
「何が起きるか」だけを待っているわけではない。
「次に、この人が何をするか」を見ている。
それは。
計画された番組とは。
少し違っていた。
*
翌朝。
青年は。
宿を出た。
今日は。
別の場所へ行くつもりだった。
しかし。
入口を出たところで。
一人の男と目が合った。
見覚えがある。
以前。
自分を追っていた側の人間だった。
男も。
青年に気づいた。
二人とも。
一瞬だけ止まる。
直人が。
小さな声で言った。
「どうします?」
青年は。
男を見る。
男は。
すぐには近づいてこなかった。
以前なら。
ここで逃げていたかもしれない。
戦う準備をしていたかもしれない。
しかし。
今日は。
そうしなかった。
「話す?」
青年が言った。
男は。
少し驚いた。
「……話すだけなら」
そう答えた。
二人は。
近くの店に入った。
未来の観客は。
その場面を見ていた。
だが。
青年も。
男も。
知らない。
その数分間の会話が。
後に。
このプロジェクトの評価を大きく変えることになるとは。
まだ誰も。
知らなかった。




