第336章 撤退の条件
南側の扉が閉じてからも、誰もすぐには動かなかった。
敵の足音は遠ざかっている。
だが、完全に消えたわけではない。北側の外壁付近では、まだ断続的に銃声が響いていた。
「撤退しているように見えるな」
隣の隊員が通信端末を確認した。
「北側の連中も下がっている。ただ、全員が同じ方向へ移動しているわけじゃない」
主人公は南側の通路を見た。
ここで敵を追えば、撤退する相手の一部を捕まえられるかもしれない。しかし、南側の扉は閉じたばかりで、固定も十分ではない。中央設備も、稼働こそ再開したが、接続状態はまだ安定していなかった。
敵が本当に退いているなら、追撃は余計な危険を増やす。
敵が別の場所へ回り込むつもりなら、なおさら守る場所を空けるわけにはいかない。
「追わない。北側の人数と移動方向だけ確認してくれ。南側は二人残って、扉を固定する」
「了解」
「中央設備は?」
通信の向こうから整備担当の声が届いた。
「稼働中。ただし、接続部に負荷が残ってる。今から敵に触られたら、また止まる可能性がある」
「修理に何人必要だ?」
「二人。できれば、あと五分は設備のそばを空けたくない」
主人公は一度だけ目を閉じ、頭の中で残っている人員を数えた。
北側の警戒、南側の扉、中央設備の保護。すべてに十分な人数を置くことはできない。
そのとき、北側の監視役から報告が入った。
「敵の一部が外壁沿いに移動中。中央設備の方向じゃない。北西側へ向かってる」
「残りは?」
「二人、まだ壁の陰にいる。こっちを見ている可能性がある」
「こちらから仕掛けないでくれ。位置を保って、動いたら報告を」
主人公は中央設備の担当者に向き直った。
「修理を続けてくれ。南側から二人回す。北側の警戒は今の人数で維持する」
「北側を減らすのか?」
「減らさない。南側の扉を固定している二人のうち、一人だけ設備へ回す。もう一人は扉のそばに残る。扉を完全に開ける必要が出たら、そのとき連絡してくれ」
指示を聞いた隊員が走り出した。
主人公も中央設備へ向かおうとしたが、右手に力を入れた瞬間、鈍い痛みが走った。
思わず手を止める。
「お前は来なくていい」
レイヴンの声が通信に割り込んだ。
「状況は見えている。設備の修理は専門の連中に任せろ。お前がそこへ行っても、使える手が増えるわけじゃない」
「分かってる」
「分かっている人間の動きには見えなかったがな」
主人公は返事をせず、通信端末を持ち直した。
右手をかばいながら、左手で端末を操作する。自分が直接作業に加われない以上、現場の状況を正確につかみ、必要な判断だけを出すしかない。
その数分後、北側から再び報告が入った。
「壁の陰にいた二人が動いた。北西側へ撤退。追跡はしていない」
「全員の姿を確認できたか?」
「いや。外壁の向こうに消えた。人数は最初に確認した数より少ない可能性がある」
主人公は通信記録を見返した。
敵は最初から、すべての通路を同じ強さで守っていたわけではない。こちらがどの道を選ぶかによって、守備を移動させていた。
その結果、こちらは救出に成功したものの、輸送車両を一台失い、設備の復旧にも余計な時間を使った。
敵の撤退を確認するために追いかければ、今度はこちらが守備を移動させることになる。
相手の作戦が終わったかどうかを確かめるために、自分たちの作戦を崩す必要はない。
「北側は監視を続ける。南側の扉を固定したら、全員を中央へ集めてくれ。設備が安定するまでは、誰も外へ出さない」
数分後、整備担当から連絡が入った。
「接続、安定した。残り時間まで維持できる」
中央設備の表示が切り替わる。
北側の警戒班も、敵の再接近がないことを確認した。南側の扉は仮固定のままだが、内側からなら十分に封鎖できる。
ようやく、各班の報告が揃った。
「救出対象、全員確認。負傷者一名、移動可能。輸送車両一台と積載物の一部を喪失。中央設備は復旧。防衛線は維持しています」
主人公は報告を聞きながら、最後にもう一度、各地点の状況を確かめた。
失ったものは戻らない。
それでも、救出した隊員たちは全員残り、中央設備も動いている。敵を追い払ったわけではないが、今回の任務で守るべきものは守り切った。
その直後、終了を告げるブザーが鳴った。
演習終了。
緊張が解けた隊員たちが、次々に装備を下ろしていく。
主人公は壁に背を預け、右手をゆっくり開いた。痛みはまだ残っている。
「今回の結果は、成功か失敗か」
カイが隣に立って尋ねた。
「任務の達成条件だけなら、成功だと思う」
「それだけか?」
「輸送車両を失った。復旧も遅れた。最初から敵の配置を見抜けていれば、もっと損失を抑えられた可能性はある」
「じゃあ、失敗か?」
「そうとも言い切れない。救出を諦めていれば、車両は残せたかもしれない。でも、設備を守るために救出対象を置き去りにするのが、今回の任務で正しかったかは別の話だ」
カイは少し考えたあと、肩をすくめた。
「結局、結果だけじゃ決められないわけか」
「結果は必要だよ。ただ、何を守る任務だったのかを忘れたら、数字だけ残っても意味がない」
そこへレイヴンがやって来た。
「二人とも、話はあとだ。今回の演習記録を確認する」
彼が端末を操作すると、敵味方の移動経路が壁面に表示された。
主人公は、敵の動きに目を留めた。
北側から南側へ、南側から中央へ。敵の配置は、こちらが移動した後を追うように変化している。
だが、一か所だけ違っていた。
「ここ、敵が一度も動いていない」
主人公が指したのは、北西側の外壁に近い地点だった。
レイヴンが記録を拡大する。
「最初から最後まで、同じ位置か」
「ほかの敵が撤退した後も残っていた。あそこに何があったんだろう」
「確認してみる価値はあるな」
レイヴンは記録を保存した。
「ただし、今回の演習区域はこれで閉鎖だ。現地を調べるのは次の訓練でいい。今は記録上で確認できる範囲にとどめる」
主人公は頷いた。
敵が何を狙っていたのか、まだ分からない。
ただ、全員が同じ目的で動いていたわけではない可能性は残った。
撤退した敵の行動を追い続けるよりも、今回の記録を残し、次に同じ状況が起きたときに判断できるようにする。
それが今、自分にできることだった。
レイヴンが記録を閉じる直前、別の項目が画面に現れた。
今回の演習に参加した複数の班のうち、北西側を担当した班だけが、終了直前に予定外の経路変更を申請していた。
申請は却下されている。
理由は、演習終了まで残り時間が少なく、任務達成に必要がないと判断されたためだった。
レイヴンはその記録を見て、眉を寄せた。
「……あの班は、何を見つけた?」
誰もすぐには答えなかった。
演習は終わった。
しかし、記録の中には、まだ確認されていない動きが残っていた。




