第318章 命令の代償
西側の目標まで、あと二つの通路を残していた。
彼は角の手前で足を止め、遠距離支援役からの報告を待った。
『前方に敵影なし。ただし、中央通路から一人が移動している。進行方向は不明』
「距離は?」
『まだ遠い。こちらの位置も気づかれていないと思う』
彼はマップを確認した。
敵が中央から西側へ移動しているなら、目標を確保する前に遭遇する可能性がある。
しかし、ここで待ち続ければ残り時間が減っていく。
「予定を変えます。目標確保役は先に進んで、確保地点の手前で待機してください。支援役は今の位置を維持。僕が少し前に出て、敵の進路を確認します」
「一人で行くのか?」
目標確保役が尋ねた。
「交戦するつもりはありません。位置が分かったら戻ります」
「敵が二人以上だったら?」
「すぐに引き返します」
目標確保役は不満そうだったが、反対はしなかった。
彼は壁沿いに進み、次の角から通路をのぞいた。
敵影が一つ。
装備の形状から判断すると、近距離戦を得意とするタイプだった。
相手は通路の中央を歩き、左右を交互に確認している。
彼はすぐに引き返そうとした。
その瞬間、敵が足を止めた。
視線がこちらへ向く。
見つかった。
彼は考えるより先に後退した。
銃声が響き、壁の端に模擬弾が当たった。
「敵に発見された。西側通路へ移動中!」
彼は通信を入れながら、来た道を戻った。
角を曲がる直前、敵が追いついてきた。
彼は反射的に身をひねり、壁の陰へ滑り込んだ。右手に衝撃が走り、痛みが腕まで伝わる。
思わず息を詰めた。
負傷した手を使わないようにしていたはずなのに、転びかけた身体を支えようとしてしまった。
「大丈夫か!」
目標確保役が駆け寄ってきた。
「右手をぶつけました。でも、動けます」
「動けるかどうかと、戦えるかどうかは別だろ」
相手は彼の右手を一瞥し、前方へ視線を戻した。
敵はまだ追ってきている。
遠距離支援役から通信が入った。
『敵が一人、こちらへ接近している。もう一人は中央に残っている。挟み込まれる可能性がある』
状況が変わった。
西側の目標へ進めば、前方の敵と接触する。
後退すれば、中央から来る敵と鉢合わせするかもしれない。
そして、残り時間は三分を切っていた。
「どうする?」
目標確保役が尋ねた。
彼はマップを見た。
西側の目標へ続く通路は二つ。片方は前方の敵がいる。もう片方は距離が長く、中央から移動してくる敵と交差する可能性がある。
最初に考えた作戦なら、ここで撤退を指示するところだった。
だが、撤退経路も安全とは限らない。
「支援役、中央の敵の位置を継続して確認してください。僕たちは遠回りの通路へ移動します。ただし、目標確保には向かわず、途中で敵の位置を再確認します」
「目標を取りに行かないのか?」
「今の情報では、確保してから脱出する時間が足りるか分かりません。敵の位置が変われば、もう一度判断します」
目標確保役は短く息を吐いた。
「分かった。だが、次に敵が現れたら、今度は早く決めてくれ」
「はい」
二人は移動を始めた。
遠回りの通路は狭く、床には障害物が散乱していた。彼は右手をかばいながら進み、何度も足元を確認した。
焦って走れば転ぶ。
慎重になりすぎれば、時間を失う。
その両方を避けようとした結果、彼の移動は思った以上に遅くなった。
「速度を上げるぞ」
目標確保役が先へ進みかけた。
「待ってください。支援役から位置情報が届くまで、ここで――」
言い終わる前に、通信が割り込んだ。
『中央の敵が進路を変更。こちらへ向かっている。距離、約四十メートル』
目標確保役が振り返った。
「もう待てない。進むか、戻るか、今決めろ」
彼はマップを見た。
敵は一人。
前方の敵がまだ同じ場所にいるなら、こちらは二方向から挟まれる。
だが、前方の敵が移動していれば、遠回りの通路を抜けられる可能性がある。
「支援役、最初に発見した敵の位置を確認してください。今すぐ」
『確認中……敵影が消えた。西側の目標方向へ移動した可能性がある』
彼は目を閉じる暇もなく、判断を下した。
「進みます。目標は放棄して、出口へ直行します。敵との交戦は避けてください」
「了解」
目標確保役は迷わず前に出た。
二人は障害物を避けながら通路を進んだ。
出口までの距離が縮まる。
そのとき、正面の扉が開いた。
敵が一人、通路へ姿を現した。
彼は即座に停止した。
敵もこちらに気づいた。
一瞬、双方が動きを止める。
「右へ!」
目標確保役が叫んだ。
二人は脇道へ飛び込んだ。
敵が射撃を開始する。
模擬弾が壁に当たり、警告音が連続して鳴った。
彼は右手を身体に引き寄せ、左手で壁を押して方向を変えた。
通路の先に、低い柵があった。
その向こうは出口へ続く短い通路だ。
目標確保役が先に柵を越えた。
彼も続こうとしたが、右手の痛みで動作が遅れた。
背後から敵が迫る。
「先に行け!」
彼は目標確保役に叫んだ。
「二人で戻るんだ!」
「ここで止まったら、二人とも捕まります!」
相手は振り返り、彼の左腕をつかんだ。
一瞬だけ身体が引き上げられた。
彼は柵を越え、足を地面につけた。
二人は出口へ走った。
残り時間は三十秒。
背後から追撃の音が続く。
出口の判定エリアに入った瞬間、目標確保役の装甲値がゼロになった。
彼は足を止めかけた。
「止まるな!」
相手の声が通信から響いた。
「先に脱出しろ!」
彼は一瞬、迷った。
だが、ここで戻れば、二人とも脱出できない可能性が高い。
彼は出口へ飛び込んだ。
判定が成立する。
訓練終了の音が鳴った。
結果は、目標未確保による任務失敗。
ただし、彼だけは脱出に成功した。
⸻
準備区画に戻ると、目標確保役が待っていた。
「さっき、どうして一度止まりかけた?」
相手が尋ねた。
「あなたが脱落したので……」
「それで戻ってきたら、何が変わった?」
彼は答えられなかった。
戻っても相手を救えた保証はない。
むしろ、自分まで脱落していた可能性が高い。
「僕は、あなたを置いていく判断をしたくなかったんです」
「気持ちは分かる。でも、任務中に必要なのは、気持ちをなくすことじゃない。自分が何をできるのか、何をできないのかを区別することだ」
相手は怒っていなかった。
だからこそ、彼は言葉を返せなかった。
遠距離支援役も合流した。
「俺の報告も遅かった。敵の位置が消えた時点で、もっと早く警告するべきだった」
「いや、僕の判断が遅れました」
彼はマップを見返した。
今回の失敗は、一つの間違いだけで起きたわけではない。
偵察に出たことで敵に発見された。
右手を痛めて移動が遅れた。
敵の位置情報が不十分なまま、経路を変更した。
目標確保を諦める判断も遅れた。
最後には、仲間を救いたいという気持ちから、脱出の判断を一瞬ためらった。
それぞれが少しずつ影響し、最後の失敗につながっていた。
「もう一度、やり直してもいいですか?」
彼が尋ねると、目標確保役は首を振った。
「今日は終わりだ。君の右手も、その状態では無理をさせられない」
遠距離支援役も同意した。
「次は、最初の作戦をもう少し簡単にした方がいい。情報が足りないときに、複雑な選択を増やしすぎていた」
彼はうなずいた。
二人は彼の指示に従った。
それでも任務は失敗した。
命令を出す側になれば、正しいことを言えば全員が助かるわけではない。
情報が足りないこともある。
判断を変える時間がないこともある。
そして、自分ではどうにもできない結果を受け入れなければならないこともある。
彼は右手を押さえた。
痛みはまだ残っていた。
今日の失敗を忘れないために、何かを記録しておこうと思った。
だが、最初に書いたのは戦術ではなかった。
「仲間に命令する前に、その命令で誰が何を失う可能性があるのかを考える」
彼はその一文を読み返し、端末を閉じた。
次の訓練で同じ失敗をしない保証はない。
それでも、少なくとも今回は、自分が何を分かっていなかったのかを知ることができた。




