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観客のいない世界  作者: 亀


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第314章 勝者の条件

三日後、右手の痛みは少しずつ引いていた。


医師からは、日常生活で必要な動作を慎重に再開してよいと言われた。ただし、強く握る動作や、手に衝撃が加わる訓練はまだ禁止されている。


彼はその指示に従い、以前から世話になっている中年の男のもとへ向かった。


「今日は何をするんですか」


「お前が決めろ」


男はそう答え、演習用の区画を指した。


そこには、三つの目標地点と、二つの出口が用意されていた。区画の中央には遮蔽物があり、外側には狭い通路が設けられている。


「制限時間は五分。三つの目標を全部確保する必要はない。終了時に、指定された条件を満たしていればいい」


男は紙を一枚渡した。


そこには、目標の確保状況、残り時間、出口までの経路が記されていた。


「ただし、途中で一度だけ条件が変わる」


「それは事前に分からないんですか」


「分かっていたら、訓練にならないだろう」


彼は紙を見直した。


最初から全部を確保しようとすれば、時間が足りなくなる可能性が高い。


目標を一つに絞れば、途中で条件が変わったときに対応できないかもしれない。


彼は、まず二つの目標を確保し、中央の遮蔽物を通って出口へ向かう経路を考えた。


「始めろ」


合図が鳴った。


彼は走らなかった。


最初の目標へ向かい、周囲を確認してから次の地点へ移動する。途中で通路の幅が狭くなり、予定していた経路を変更した。


残り時間は三分半。


二つ目の目標を確保したところで、男の声が響いた。


「条件変更。二つ目の目標は無効。最初の目標を維持したまま、反対側の出口へ移動しろ」


彼は足を止めた。


二つ目の目標を確保するために使った時間が無駄になった。


反対側の出口へ向かうには、中央の遮蔽物を回り込む必要がある。


そのまま進めば、残り時間は厳しい。


彼は二つ目の目標から離れ、最初の地点へ戻る経路を選んだ。


だが、途中で立ち止まった。


最初の目標を維持するという条件は、そこから動いてはいけないという意味なのか。それとも、目標を失わない状態を保てばいいのか。


「確認します」


彼は声を上げた。


「最初の目標を維持するというのは、地点に戻る必要がありますか。それとも、確保状態が続いていればいいんですか」


男はすぐには答えなかった。


「条件文を読め」


彼は紙を確認した。


確保状態を維持する、と書かれている。


地点に留まる必要はない。


彼は経路を変更し、直接、反対側の出口へ向かった。


終了の合図が鳴ったとき、残り時間はわずかだった。


「合格ですか」


彼が尋ねると、男は首を横に振った。


「不合格だ」


「どこが問題でしたか」


「お前は、条件が変わったあとも、最初に考えた計画を守ろうとした。確認するまでに時間を使ったこと自体は悪くない。だが、確認が必要だと判断するまでに、もっと早く動けたはずだ」


男は紙を指した。


「最初の計画は、最初の条件に対するものだ。条件が変わったなら、計画も変わる。古い計画を守ることが目的になったら、何のために動いているのか分からなくなる」


彼は黙って聞いていた。


「もう一度やるか?」


「お願いします」


今度は、最初の目標を確保したあと、次の目標へ進む前に出口までの経路を確認した。


条件変更の合図が鳴ったとき、彼はすぐに移動を始めた。


確認に時間を使う必要はなかった。


最初から、条件が変わる可能性を考えていたからだ。


終了の合図が鳴った。


「今度は合格だ」


男は短く言った。


彼は息を吐いた。


派手な動きは何もなかった。


誰かを倒したわけでもない。


それでも、一度目と二度目では、明らかに違う結果になった。


*


訓練を終えた直後、直人から連絡が入った。


「合同演習の映像を見た上位参加者が、お前と一度話したいそうだ」


「誰ですか」


「レイヴンだ」


彼は少し驚いた。


レイヴンは、複数のプラットフォームで上位に位置する参加者だった。以前の戦闘でも名前を聞いたことがある。


「何の話だろう」


「詳しくは聞いていない。ただ、今日の午後に時間を取れるらしい」


彼は右手を確認した。


まだ実戦に出られる状態ではない。


だが、話を聞くことに支障はなかった。


「会ってみる」


*


レイヴンが指定したのは、演習場に併設された休憩室だった。


彼が入ると、レイヴンは椅子に座り、携帯端末で映像を確認していた。


「来たか」


レイヴンは画面を消した。


「座ってくれ」


彼が向かいに座ると、レイヴンは単刀直入に切り出した。


「お前、他の参加者の戦い方をよく見ているな」


「自分にできることが少ないので、参考にしています」


「それは悪くない。ただ、真似をするだけなら、いつか限界が来る」


レイヴンは端末を操作し、一つの映像を表示した。


先日の合同演習だった。


「ここを見ろ」


映像の中では、二人の参加者が狭い通路を挟んで向かい合っていた。


「右側の参加者は、相手が先に動くのを待っている。左側は、それを理解しているから、あえて動かない」


映像が止まった。


「この状況で、どちらが有利だと思う?」


彼は画面を見た。


「右側です。先に動けば、左側が対応しなければならなくなります。ただ、左側が動かない理由によっては、右側が動くことで不利になる可能性もあります」


「そうだ」


レイヴンは映像を再生した。


右側の参加者が、一歩だけ前に出る。


左側は反応しなかった。


右側はもう一歩進んだ。


その瞬間、左側が横へ移動し、別の経路から目標地点へ向かった。


「右側は、相手が反応することを前提にしていた。だが、相手には反応しないという選択肢もあった」


レイヴンは画面を閉じた。


「戦闘では、相手が何をするかだけを考えても足りない。相手が何をしないかも考えろ」


彼は頷いた。


先日の演習でも、似た場面を見ていた。


相手が動かないとき、それを単なる遅れと考えてしまえば、こちらから仕掛けることになる。


だが、動かないこと自体が相手の選択なら、こちらの行動が相手の望む展開を作る可能性もある。


「ただ、相手が何もしてこないなら、こちらも何もしないほうがいい場合がありますよね」


「もちろんだ。だから、何を守りたいのかを考える必要がある」


レイヴンは椅子にもたれた。


「お前は、勝つことよりも、状況を理解することに時間を使う。今のところ、それはお前の長所だ。ただし、理解すること自体を目的にするな」


「行動につなげる必要がある、ということですか」


「そうだ。戦闘が終わるまで、考える時間は限られている」


レイヴンは、彼の右手に目を向けた。


「今は無理に戦う必要はない。手が治ったら、俺の訓練に参加してみるか」


「どんな訓練ですか」


「俺が相手をする。ただし、勝とうとする必要はない。お前が何を見て、どこで判断を間違えるのかを確認する」


彼は少し考えた。


「お願いします」


「条件がある」


レイヴンは続けた。


「俺のやり方を、そのまま正解だと思うな。俺には俺の戦い方がある。お前には、お前の身体と経験に合った方法が必要だ」


「分かりました」


レイヴンは頷き、端末をしまった。


「なら、まずは手を治せ。それからだ」


*


帰り道、直人は彼に尋ねた。


「レイヴンと組むことになったら、強くなれそうか?」


「分からない」


「またそれか」


「実際にやってみないと分からないから」


彼は歩きながら、右手を見た。


「ただ、今まで自分が考えていたより、戦い方には選択肢があるらしい」


「選択肢?」


「相手を倒すか、逃げるか。それだけじゃない。相手を動かすこともできるし、動かないことで相手に選ばせることもできる。二人で戦うなら、相手の選択肢を制限しながら、自分たちの選択肢を残す方法もある」


直人は少し考えてから言った。


「難しそうだな」


「難しいと思う」


彼は笑った。


「だから、練習するんだ」


その日の夜、彼は演習映像を再び確認した。


今度は、勝った参加者だけを見なかった。


敗れた側が、どこで選択肢を失ったのか。


勝った側が、どの時点で危険を引き受け、どの時点で引き返したのか。


そして、自分なら何を選ぶのか。


彼は映像を止め、何度か考え直した。


すぐに正解が見つかるわけではなかった。


だが、以前なら見落としていた小さな判断の違いが、少しずつ目に入るようになっていた。


彼は記録を閉じた。


明日も訓練を続ける。


右手が回復するまで、実戦には出られない。


それでも、回復したあとに何も変わっていない自分でいたくはなかった。

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