第312章 勝つための距離
診療所に戻った翌朝、彼は右手の痛みで目を覚ました。
傷そのものが悪化したわけではない。だが、前日に施設で無理をしたせいか、指を動かすと鈍い痛みが残っていた。
医師からは、引き続き安静にするよう言われている。
彼はしばらく手を見つめたあと、左手で携帯電話を取った。
画面には、昨夜届いたメッセージが残っていた。
『装置の回収を確認した。次は、移管先を調べるな』
彼はそれを開かず、画面を閉じた。
今は追いかけない。
相手が何を知っているのかを考え続けても、身体が強くなるわけではなかった。
そして、昨日の自分は、負傷者を支えるだけで再び手を痛めた。
戦う以前の問題だった。
彼はベッドから起き上がり、医師に許可された範囲で身体を動かした。右手に負担をかけず、足首、膝、腰、肩の順にゆっくりと動かしていく。
痛みが出たところで止める。
以前なら、動けるうちに動こうとしていた。
今は違う。
回復を早めるつもりで無理をすれば、結局、動けない時間が長くなる。
彼はそのことを、すでに何度も経験していた。
*
午後、彼は直人とともに、以前から世話になっている中年の男のもとを訪ねた。
男は彼の右手を見るなり、眉をひそめた。
「またやったのか」
「少し無理をしました」
「少しでそうなるなら、少しじゃない」
男はそれ以上、責めなかった。
代わりに、空いている場所を指した。
「今日は手を使う訓練はしない。走る必要もない。まず、立ってみろ」
彼は言われたとおりに立った。
「相手が正面から来たとする。お前はどうする」
「距離を取ります」
「どこへ?」
彼は周囲を見た。
右側には壁。左側には荷物が積まれている。後方には出入口があるが、そこまで一直線に下がれば、途中で足を取られる可能性があった。
「後ろに下がるだけでは、出口まで行けません。左に回って、荷物を間に置きます」
「そのあと?」
「相手が追ってきたら、出口に向かいます。ただ、相手が先に左側を塞いだら、別の経路を使います」
男は頷いた。
「じゃあ、相手が追ってこなかったら?」
彼は答えに詰まった。
「……様子を見ます」
「何を?」
「相手の位置と、こちらに近づくかどうかです」
「それだけか」
彼はもう一度、周囲を見た。
相手が追ってこないなら、出口へ向かうことだけが目的ではない。自分が何かを守る必要があるのか、相手が別の対象を狙っているのか、そもそもその場に残る理由があるのか。
考えるべきことは、まだあった。
「自分がそこにいる必要があるのかも考えます」
男は初めて笑った。
「やっと入口に立ったな」
彼はその言葉の意味を考えた。
「戦い方を覚える前に、戦う必要があるかを判断する?」
「違う。戦う必要があると判断したあとも、どう戦うかを選べるようにするんだ」
男は彼の足元を指した。
「お前は相手を倒すことばかり考えていない。それは悪くない。だが、逃げると決めたなら、逃げ切るための準備をしろ。守ると決めたなら、何をどこまで守るのか決めろ。途中で目的を変えるなら、その理由も自分で分かっていろ」
彼は黙って聞いていた。
「昨日のお前は、負傷者を支えながら逃げた。結果として逃げ切ったが、手を痛めた。次に同じことが起きたら、どうする?」
「先に逃げ道を確保します。負傷者を支える方法も、片手でできる範囲に限ります」
「それで足りるか?」
「相手の人数や距離によります。自分一人で運べないなら、直人に協力を頼むか、別の方法を探します」
「そうだ。できないことを、できるふりで埋めるな」
男は床に置かれた小さな箱を、彼の前に移動させた。
「今度は、ここから出口まで歩け。箱には触れるな。右手も使うな。俺が途中で位置を変える」
彼は出入口を確認し、歩き始めた。
男は箱を少しだけ動かした。
彼は歩幅を変え、箱との距離を保った。
次に男は椅子を通路の端へ移した。
彼は一度立ち止まり、進路を変えた。
三度目、男は何も動かさなかった。
それでも彼は、直前と同じようには進まなかった。
「なぜ止まった?」
「前の変更に意識を取られて、周囲を確認するのを忘れそうになったからです」
男は頷いた。
「相手が何かをしたからといって、全部それに反応する必要はない。反応するかどうかも、お前が決めることだ」
彼は出口まで歩き切った。
時間はかかった。
一度も走っていない。
誰かを倒したわけでもない。
それでも、昨日より一つだけ、分かったことがあった。
相手の動きに反応することと、相手に行動を決められることは、同じではない。
*
訓練を終えたあと、直人が携帯電話を差し出した。
「お前宛てだ。以前から応援している人たちの連絡窓口から来ている」
画面には、短い案内が表示されていた。
《本日、合同実戦演習を実施。参加者は複数プラットフォームの上位参加者。見学および限定参加枠あり》
その下に、参加条件が記されている。
負傷者の参加は禁止。
医師による運動制限がある場合、実戦参加は不可。
見学者は、指定された安全区画から出てはならない。
彼は条件を読み終えた。
「誰が主催しているんだ?」
「複数の応援者が費用を出しているらしい。参加する上位参加者の中には、以前お前を助けた連中もいる。ただし、全員が同じ陣営というわけじゃない」
「俺を呼んだ理由は?」
「今のところ、見学枠だ。参加を強制するものではない」
彼は少し考えた。
今の状態では、実戦に参加できない。
しかし、他の参加者がどのように動き、何を見て判断しているのかを知る機会にはなる。
「行こう」
直人が確認するように言った。
「見学だけだぞ」
「分かっている。右手を治すことが先だ」
彼は携帯電話を返した。
昨日まで追いかけていた記録装置の行方は、まだ分からない。
だが、今の彼に必要なのは、何も分からないまま走り回ることではなかった。
自分が持っているものと、持っていないものを把握すること。
そして、持っていないものをどう補うか、実際の戦いを見ながら考えることだった。
*
演習場は、旧市街から離れた工業区画に設けられていた。
広い敷地の中央には、複数の障害物と高低差のある通路が組まれている。建物の外壁を模した板、見通しの悪い角、通過できる幅が異なる狭い道。
単純な力比べをするための場所ではなかった。
観覧区画に入ると、すでに何人もの参加者が準備を進めていた。
その中に、彼が以前、別の戦闘で見かけた人物がいた。
相手は彼に気づくと、軽く手を上げた。
「今日は出ないのか?」
「右手を痛めています」
「それなら仕方ないな。無理に出ても、訓練にならない」
相手はそう言って、準備に戻った。
余計な励ましも、過剰な同情もなかった。
それが、彼にはありがたかった。
演習開始の合図が鳴った。
最初の二人が区画に入る。
一人は正面から距離を詰め、もう一人はすぐには動かず、障害物の陰に位置を取った。
正面から攻めた側は、相手が動かないことに苛立ったのか、角を回って接近した。
その瞬間、待っていた側が位置を変えた。
攻めた側は追いかけたが、進路が狭くなり、足を止めざるを得なくなった。
数秒後、判定の合図が鳴った。
勝ったのは、最初に動かなかった側だった。
彼はその動きを目で追いながら、頭の中で状況を整理した。
速さの差だけではない。
先に動いた側は、自分が相手を追っているつもりで、実際には相手が用意した経路を進まされていた。
次の演習では、逆の展開になった。
最初に動かなかった側が、相手の位置を読み違えた。障害物の陰に隠れた相手が、予想とは異なる通路から接近し、短時間で勝負が決まった。
彼は眉を寄せた。
同じように待つ戦術でも、相手が何をしているかを見誤れば、ただの遅れになる。
「何を見ている?」
隣から声がした。
振り向くと、見知らぬ男が立っていた。演習の参加者らしく、動きやすい服装をしている。
「どちらが強いかを見ています」
彼が答えると、男は首を振った。
「それだけなら、結果を見れば分かる」
男は区画を指した。
「見るのは、勝った側が何を捨てたかだ」
彼はもう一度、演習場に目を向けた。
最初の勝者は、相手を追いかけなかった。距離を詰める機会を捨て、その代わりに相手の進路を制限した。
二人目の勝者は、相手の動きを待つことを捨て、危険を承知で先に位置を変えた。
どちらも、すべてを手に入れようとはしていなかった。
「何かを選ぶと、別の何かができなくなる」
彼が呟くと、男は頷いた。
「そういうことだ。戦闘では、全部を守ろうとしたやつから遅れることがある」
男は彼の右手に視線を落とした。
「今のお前は、出ないことを選んでいる。それなら、出られない自分を責めるより、今できることを見つけたほうがいい」
そう言い残し、男は参加者の集合場所へ戻っていった。
彼はその背中を見送った。
名前も聞いていない。
だが、言葉の意味は理解できた。
今の自分は、戦うことができない。
ならば、戦えない時間を、ただ失われた時間にする必要はない。
彼は演習場へ視線を戻した。
次の試合では、二人の参加者が同時に動いた。
片方が正面を押さえ、もう片方が側面へ回り込む。
彼はその連携を見ながら、初めて、単独での勝敗とは違う問題を考え始めた。
自分一人でできることには限界がある。
しかし、他人と協力することも、単純に人数を増やせば解決するわけではない。
互いに何ができるのかを知り、どこを任せ、どこを自分で判断するのか。
それもまた、身につけるべき能力だった。
演習はまだ続いていた。
彼は席を立たなかった。
右手の痛みは消えていない。
明日になって、急に強くなっているわけでもないだろう。
それでも、次に戦うとき、自分が何を見て、何を選ぶべきか。
その問いに対する答えは、昨日より少しだけ増えていた。




