↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
観客のいない世界  作者: 亀


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

311/455

第311章 残された記録

診療所の時計が、午後二時を指していた。


彼はベッドの端に座り、右手を膝の上に置いていた。痛みは朝より少し引いていたが、指を動かすと、まだ鈍い痛みが走る。


医師からは、できるだけ使わないように言われていた。


直人は窓際で電話をしていた。


「……分かった。そっちは動くな。こちらから連絡する」


通話を切った直人は、彼を振り返った。


「作業着の男からだ」


彼の表情が変わった。


「記録装置か?」


「ああ。旧輸送施設に人が入ったらしい。二人。施設の正式な入場記録には載っていない」


「何をしている?」


「記録装置を取りに来た可能性が高い。ただ、まだ確保したかどうかは分からない」


彼は立ち上がろうとした。


直人がすぐに言った。


「その手で何をするつもりだ」


「取りに行くわけじゃない。誰が持ち出すのか、確認する」


「確認だけで済む保証はない」


「だから、負傷者はここに残す」


ベッドの向こうで、負傷した男が顔を上げた。


「俺は行かない。今の状態で足手まといになるのは分かっている」


彼は男に頷いた。


「医師の指示に従ってくれ。俺たちが戻らなければ、直人が残した連絡先に連絡してほしい」


「分かった。ただし、装置を持ち帰ることだけにこだわるな」


男は少し間を置いて続けた。


「記録を消すなと言った人間がいた。あの言葉が正しいなら、装置そのものより、そこに何が残っているかのほうが重要だ」


彼はその言葉を覚えておくことにした。


二人は診療所を出た。


*


旧輸送施設に着いたのは、三十分後だった。


正面入口には人影がなかった。以前と同じように、建物の一部は使われておらず、搬入口のシャッターも半分ほど下りていた。


直人は車を離れた場所に止めた。


「正面から入るのはやめよう。向こうが待っている可能性がある」


彼は頷いた。


二人は建物の側面に回り、荷物用通路の近くで足を止めた。


通路の奥から、金属が床に触れる音が聞こえた。


続いて、男の声がした。


「本体はこれで全部か」


「記録媒体は一つだ。端末側の記録は別に残っている」


「それは聞いていない」


「聞いていないからといって、存在しないわけじゃない」


二人は顔を見合わせた。


記録装置を回収する側は、端末に残った記録まで把握しているわけではないらしい。


少なくとも、会話を聞く限りではそうだった。


彼は通路の角から、慎重に中を覗いた。


作業着の男が壁際に立っていた。


その向かいには、濃い色の上着を着た男が一人。足元には小型のケースが置かれている。もう一人はケースの横で、携帯端末を操作していた。


作業着の男はケースを見ていたが、手を伸ばしてはいなかった。


「引き渡しの承認番号を見せてくれ」


濃い色の上着の男が言った。


「記録装置の回収命令は受けている。承認番号は現場に提示する必要がない」


「なら、渡す必要もない」


作業着の男は静かに答えた。


「記録の保全を命じられた。回収命令があることと、記録を消去したり、別の媒体に置き換えたりしていいことは違う」


相手の男は、すぐには答えなかった。


やがて、携帯端末を持った男が口を開いた。


「装置を持ち帰ればいい。内容の確認は管理系統で行う」


「その管理系統が、誰なのか分からない」


作業着の男の言葉に、空気が変わった。


濃い色の上着の男が一歩近づいた。


「余計なことを考えるな。お前の担当は終わっている」


「担当が終わったという通知は受けていない」


「今、伝えた」


「それでは正式な解除にならない」


男が作業着の男の腕をつかんだ。


彼は反射的に動きかけたが、直人がその袖をつかんだ。


「待て」


直人は小声で言った。


「今入れば、二対二だ。お前は右手を使えない。俺たちが倒せる相手かどうかも分からない」


彼は歯を食いしばり、動きを止めた。


その間に、作業着の男はつかまれた腕を振りほどこうとした。


「手を離せ」


「装置を渡せば済む話だ」


「それを渡したあと、記録が消えたらどうする」


男の手が強くなった。


次の瞬間、作業着の男は壁に肩をぶつけた。


ケースが床を滑った。


携帯端末を持った男が、すぐにそれを拾い上げた。


「回収完了。撤収する」


濃い色の上着の男は作業着の男から手を離し、ケースを持った相手に続こうとした。


そのとき、作業着の男が相手の足元に手を伸ばした。


ケースではなかった。


床に落ちていた、小さな金属片だった。


男がそれを踏みつける。


乾いた音がして、金属片が変形した。


作業着の男は、何も言わなかった。


彼はその光景を見て、ようやく理解した。


作業着の男は、記録装置を守れなかった。


だが、相手に渡す前に、何かを残そうとしていた。


二人が通路の奥へ向かった瞬間、直人が彼の腕を軽く引いた。


「今だ。追うなら距離を取る」


二人は正面から出ず、建物の外周を回った。


回収したケースを持つ男たちは、裏手の駐車区画へ向かっていた。そこには白い車が一台止まっている。


彼らが乗り込む直前、直人が小さく言った。


「ナンバーを覚える」


彼は車体の番号を目で追った。


しかし、後部の一部は泥で汚れており、すべてを読み取ることはできなかった。


車は走り出した。


二人は追わなかった。


追跡を始めれば、相手に気づかれる可能性が高い。何より、今の彼には長時間走る余裕がなかった。


車が道路の向こうへ消えてから、二人は施設へ戻った。


*


作業着の男は、壁際に座っていた。


肩を押さえていたが、意識ははっきりしている。


直人が近づいた。


「立てるか」


「問題ない」


「装置は持っていかれた」


「見れば分かる」


男は短く答えた。


彼は床に目を向けた。


「さっき、何かを踏みつぶしていたな」


作業着の男は、足元に視線を落とした。


「識別片だ。装置本体とは別に、保管記録の照合に使うものだった」


「壊したのか」


「壊された。私が持っていたことに気づかれたからな」


「それで、記録は失われた?」


男は首を横に振った。


「照合に使う識別片は失われた。しかし、記録そのものは別の端末にも残っている。さっき、あの二人が話していたとおりだ」


彼は一歩近づいた。


「どこにある?」


「ここにある端末だ。ただし、すべての内容を見られるわけではない。私の権限は、装置を保全するところまでだった」


作業着の男は壁に手をつき、ゆっくり立ち上がった。


三人は管理室へ向かった。


端末はまだ起動していた。


作業着の男が操作すると、画面に直近の処理履歴が表示された。


先ほど回収された装置の管理番号。


回収命令の発行時刻。


そして、受領者欄。


彼は画面を見つめた。


受領者欄には、個人名も担当者番号もなかった。


代わりに、短い表示が一つだけ残っていた。


《管理系統への直接移管》


「これが受領者なのか?」


直人が尋ねた。


「少なくとも、この記録ではそうなっている」


作業着の男が答えた。


「誰が受け取るのかを指定せず、管理系統そのものを受領先にしている」


「そんなことができるのか」


「権限があれば可能だろう。だが、私にはその権限がない」


彼は別の欄を見た。


回収命令の発行元には、旧管理系統の識別番号が記録されていた。


一方、装置の受領先には、別の管理番号が表示されている。


二つは一致していなかった。


彼はその違いを、直人に指で示した。


「停止を承認した系統と、今回の回収を命じた系統が同じだとは限らない。少なくとも、記録上は別だ」


「だが、どちらも管理系統の権限を使っている」


「そうだ」


彼は画面を撮影しようとした。


しかし、端末には外部へのデータ出力を拒否する表示が出た。


作業着の男が言った。


「無理に出力すれば、操作記録が残る。ここから先は、私にも止められない」


彼は撮影をやめた。


代わりに、画面に表示された番号と時刻を紙に書き留めた。右手は使えないため、直人が代わりに記録した。


作業着の男は、その様子を見ながら言った。


「これで何かが解決するわけじゃない」


「分かっている」


彼は答えた。


「ただ、少なくとも装置が誰か一人に渡ったわけではないと分かった」


管理系統に移された記録が、誰の判断で、どこまで利用されるのか。


その答えはまだない。


だが、今までのように、回収担当者の名前を探しても意味がないことは見えてきた。


相手は人間の名前を記録する代わりに、受領先そのものを管理系統にしていた。


その方法なら、担当者が解除されても、別の人間が後任として現れなくても、処理だけは続けられる。


彼は画面を閉じる前に、最後の項目を確認した。


《移管処理:完了》


その下には、小さな文字が続いていた。


《内容確認:未実施》


装置は回収された。


しかし、誰が内容を確認するのかは、まだ決まっていなかった。


彼は端末から目を離した。


「帰ろう。ここにいても、次に来る人間を待つだけになる」


直人が頷いた。


作業着の男は、二人を出口まで送った。


「この記録を見たことは、誰にも話さないほうがいい」


「あなたはどうする?」


彼が尋ねると、男は少し考えた。


「ここに残る。私がいなくなれば、次に誰が記録を保全するのか分からなくなる」


それは勇敢な宣言ではなかった。


ただ、彼の仕事がまだ終わっていないというだけだった。


二人は施設を離れた。


車に乗り込む直前、彼の携帯電話が震えた。


見覚えのない番号からの着信だった。


彼は出なかった。


数秒後、短いメッセージが届いた。


『装置の回収を確認した。次は、移管先を調べるな』


彼は画面を見つめた。


相手は、彼らが施設にいたことを知っている。


だが、装置の内容を確認したかどうかまでは、知らないのかもしれない。


彼はメッセージを直人に見せた。


「どうする?」


直人が尋ねた。


彼は携帯電話をしまった。


「今は何もしない。向こうが何を知っているのか、こっちから教える必要はない」


右手の痛みが、再び強くなっていた。


それでも彼の頭の中では、二つの管理番号が並んでいた。


一つは、記録装置を回収させた系統。


もう一つは、受領先として指定された系統。


その間に、担当者の名前は一つもなかった。


そして、記録の内容は、まだ確認されていない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。