第311章 残された記録
診療所の時計が、午後二時を指していた。
彼はベッドの端に座り、右手を膝の上に置いていた。痛みは朝より少し引いていたが、指を動かすと、まだ鈍い痛みが走る。
医師からは、できるだけ使わないように言われていた。
直人は窓際で電話をしていた。
「……分かった。そっちは動くな。こちらから連絡する」
通話を切った直人は、彼を振り返った。
「作業着の男からだ」
彼の表情が変わった。
「記録装置か?」
「ああ。旧輸送施設に人が入ったらしい。二人。施設の正式な入場記録には載っていない」
「何をしている?」
「記録装置を取りに来た可能性が高い。ただ、まだ確保したかどうかは分からない」
彼は立ち上がろうとした。
直人がすぐに言った。
「その手で何をするつもりだ」
「取りに行くわけじゃない。誰が持ち出すのか、確認する」
「確認だけで済む保証はない」
「だから、負傷者はここに残す」
ベッドの向こうで、負傷した男が顔を上げた。
「俺は行かない。今の状態で足手まといになるのは分かっている」
彼は男に頷いた。
「医師の指示に従ってくれ。俺たちが戻らなければ、直人が残した連絡先に連絡してほしい」
「分かった。ただし、装置を持ち帰ることだけにこだわるな」
男は少し間を置いて続けた。
「記録を消すなと言った人間がいた。あの言葉が正しいなら、装置そのものより、そこに何が残っているかのほうが重要だ」
彼はその言葉を覚えておくことにした。
二人は診療所を出た。
*
旧輸送施設に着いたのは、三十分後だった。
正面入口には人影がなかった。以前と同じように、建物の一部は使われておらず、搬入口のシャッターも半分ほど下りていた。
直人は車を離れた場所に止めた。
「正面から入るのはやめよう。向こうが待っている可能性がある」
彼は頷いた。
二人は建物の側面に回り、荷物用通路の近くで足を止めた。
通路の奥から、金属が床に触れる音が聞こえた。
続いて、男の声がした。
「本体はこれで全部か」
「記録媒体は一つだ。端末側の記録は別に残っている」
「それは聞いていない」
「聞いていないからといって、存在しないわけじゃない」
二人は顔を見合わせた。
記録装置を回収する側は、端末に残った記録まで把握しているわけではないらしい。
少なくとも、会話を聞く限りではそうだった。
彼は通路の角から、慎重に中を覗いた。
作業着の男が壁際に立っていた。
その向かいには、濃い色の上着を着た男が一人。足元には小型のケースが置かれている。もう一人はケースの横で、携帯端末を操作していた。
作業着の男はケースを見ていたが、手を伸ばしてはいなかった。
「引き渡しの承認番号を見せてくれ」
濃い色の上着の男が言った。
「記録装置の回収命令は受けている。承認番号は現場に提示する必要がない」
「なら、渡す必要もない」
作業着の男は静かに答えた。
「記録の保全を命じられた。回収命令があることと、記録を消去したり、別の媒体に置き換えたりしていいことは違う」
相手の男は、すぐには答えなかった。
やがて、携帯端末を持った男が口を開いた。
「装置を持ち帰ればいい。内容の確認は管理系統で行う」
「その管理系統が、誰なのか分からない」
作業着の男の言葉に、空気が変わった。
濃い色の上着の男が一歩近づいた。
「余計なことを考えるな。お前の担当は終わっている」
「担当が終わったという通知は受けていない」
「今、伝えた」
「それでは正式な解除にならない」
男が作業着の男の腕をつかんだ。
彼は反射的に動きかけたが、直人がその袖をつかんだ。
「待て」
直人は小声で言った。
「今入れば、二対二だ。お前は右手を使えない。俺たちが倒せる相手かどうかも分からない」
彼は歯を食いしばり、動きを止めた。
その間に、作業着の男はつかまれた腕を振りほどこうとした。
「手を離せ」
「装置を渡せば済む話だ」
「それを渡したあと、記録が消えたらどうする」
男の手が強くなった。
次の瞬間、作業着の男は壁に肩をぶつけた。
ケースが床を滑った。
携帯端末を持った男が、すぐにそれを拾い上げた。
「回収完了。撤収する」
濃い色の上着の男は作業着の男から手を離し、ケースを持った相手に続こうとした。
そのとき、作業着の男が相手の足元に手を伸ばした。
ケースではなかった。
床に落ちていた、小さな金属片だった。
男がそれを踏みつける。
乾いた音がして、金属片が変形した。
作業着の男は、何も言わなかった。
彼はその光景を見て、ようやく理解した。
作業着の男は、記録装置を守れなかった。
だが、相手に渡す前に、何かを残そうとしていた。
二人が通路の奥へ向かった瞬間、直人が彼の腕を軽く引いた。
「今だ。追うなら距離を取る」
二人は正面から出ず、建物の外周を回った。
回収したケースを持つ男たちは、裏手の駐車区画へ向かっていた。そこには白い車が一台止まっている。
彼らが乗り込む直前、直人が小さく言った。
「ナンバーを覚える」
彼は車体の番号を目で追った。
しかし、後部の一部は泥で汚れており、すべてを読み取ることはできなかった。
車は走り出した。
二人は追わなかった。
追跡を始めれば、相手に気づかれる可能性が高い。何より、今の彼には長時間走る余裕がなかった。
車が道路の向こうへ消えてから、二人は施設へ戻った。
*
作業着の男は、壁際に座っていた。
肩を押さえていたが、意識ははっきりしている。
直人が近づいた。
「立てるか」
「問題ない」
「装置は持っていかれた」
「見れば分かる」
男は短く答えた。
彼は床に目を向けた。
「さっき、何かを踏みつぶしていたな」
作業着の男は、足元に視線を落とした。
「識別片だ。装置本体とは別に、保管記録の照合に使うものだった」
「壊したのか」
「壊された。私が持っていたことに気づかれたからな」
「それで、記録は失われた?」
男は首を横に振った。
「照合に使う識別片は失われた。しかし、記録そのものは別の端末にも残っている。さっき、あの二人が話していたとおりだ」
彼は一歩近づいた。
「どこにある?」
「ここにある端末だ。ただし、すべての内容を見られるわけではない。私の権限は、装置を保全するところまでだった」
作業着の男は壁に手をつき、ゆっくり立ち上がった。
三人は管理室へ向かった。
端末はまだ起動していた。
作業着の男が操作すると、画面に直近の処理履歴が表示された。
先ほど回収された装置の管理番号。
回収命令の発行時刻。
そして、受領者欄。
彼は画面を見つめた。
受領者欄には、個人名も担当者番号もなかった。
代わりに、短い表示が一つだけ残っていた。
《管理系統への直接移管》
「これが受領者なのか?」
直人が尋ねた。
「少なくとも、この記録ではそうなっている」
作業着の男が答えた。
「誰が受け取るのかを指定せず、管理系統そのものを受領先にしている」
「そんなことができるのか」
「権限があれば可能だろう。だが、私にはその権限がない」
彼は別の欄を見た。
回収命令の発行元には、旧管理系統の識別番号が記録されていた。
一方、装置の受領先には、別の管理番号が表示されている。
二つは一致していなかった。
彼はその違いを、直人に指で示した。
「停止を承認した系統と、今回の回収を命じた系統が同じだとは限らない。少なくとも、記録上は別だ」
「だが、どちらも管理系統の権限を使っている」
「そうだ」
彼は画面を撮影しようとした。
しかし、端末には外部へのデータ出力を拒否する表示が出た。
作業着の男が言った。
「無理に出力すれば、操作記録が残る。ここから先は、私にも止められない」
彼は撮影をやめた。
代わりに、画面に表示された番号と時刻を紙に書き留めた。右手は使えないため、直人が代わりに記録した。
作業着の男は、その様子を見ながら言った。
「これで何かが解決するわけじゃない」
「分かっている」
彼は答えた。
「ただ、少なくとも装置が誰か一人に渡ったわけではないと分かった」
管理系統に移された記録が、誰の判断で、どこまで利用されるのか。
その答えはまだない。
だが、今までのように、回収担当者の名前を探しても意味がないことは見えてきた。
相手は人間の名前を記録する代わりに、受領先そのものを管理系統にしていた。
その方法なら、担当者が解除されても、別の人間が後任として現れなくても、処理だけは続けられる。
彼は画面を閉じる前に、最後の項目を確認した。
《移管処理:完了》
その下には、小さな文字が続いていた。
《内容確認:未実施》
装置は回収された。
しかし、誰が内容を確認するのかは、まだ決まっていなかった。
彼は端末から目を離した。
「帰ろう。ここにいても、次に来る人間を待つだけになる」
直人が頷いた。
作業着の男は、二人を出口まで送った。
「この記録を見たことは、誰にも話さないほうがいい」
「あなたはどうする?」
彼が尋ねると、男は少し考えた。
「ここに残る。私がいなくなれば、次に誰が記録を保全するのか分からなくなる」
それは勇敢な宣言ではなかった。
ただ、彼の仕事がまだ終わっていないというだけだった。
二人は施設を離れた。
車に乗り込む直前、彼の携帯電話が震えた。
見覚えのない番号からの着信だった。
彼は出なかった。
数秒後、短いメッセージが届いた。
『装置の回収を確認した。次は、移管先を調べるな』
彼は画面を見つめた。
相手は、彼らが施設にいたことを知っている。
だが、装置の内容を確認したかどうかまでは、知らないのかもしれない。
彼はメッセージを直人に見せた。
「どうする?」
直人が尋ねた。
彼は携帯電話をしまった。
「今は何もしない。向こうが何を知っているのか、こっちから教える必要はない」
右手の痛みが、再び強くなっていた。
それでも彼の頭の中では、二つの管理番号が並んでいた。
一つは、記録装置を回収させた系統。
もう一つは、受領先として指定された系統。
その間に、担当者の名前は一つもなかった。
そして、記録の内容は、まだ確認されていない。




