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観客のいない世界  作者: 亀


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第309章 切り離された権限

 翌朝、直人は二人分の移送記録を並べていた。


 負傷した男は診療所で休んでいる。医師からは、しばらく無理に歩かせないようにと言われていた。


 彼は右手を机の上に置き、直人の説明を聞いた。


「昨日の更新記録を、時間順に並べた。最初に停止が承認され、そのあと移送先が変更された。さらに、負傷者の移送先だけが未登録に戻っている」


「俺たち二人の指定は残ったままか」


「そうだ。しかも、二人の記録には共通する管理番号があるのに、照会先が別々に設定されている」


 直人が画面を拡大した。


 共通番号の下に、小さな文字で権限設定が表示されていた。


 相互照会:制限中。


「これが、昨日の電話で言っていた設定か」


「たぶんな。ただ、制限の理由までは書かれていない」


 彼は画面を見た。


 同じ計画に含まれている人間同士なのに、互いの所在を確認する権限が制限されている。


 それは、二人を別々に移送するだけの場合よりも、明確な意味を持っていた。


「この設定を解除できるのは誰だ?」


「通常の照会権限では変更できない。管理系統の承認が必要らしい」


「昨日の作業服の男なら?」


「確認してみたが、あの人にも変更権限はなかった。閲覧と現場の扉の操作はできても、計画全体の設定には触れないそうだ」


 彼はうなずいた。


 権限が分かれていること自体は不自然ではない。施設の管理者が、回収計画全体を自由に変更できる必要はないからだ。


 問題は、その分割された権限が、彼らを互いに切り離すために使われている可能性だった。


「昨日の電話の相手は、閲覧権限しかないと言っていたな」


「ああ」


「なら、相手が見られる範囲と、俺たちに伝えた内容が一致しているかを確認する必要がある」


 直人は画面を閉じた。


「どうやって?」


「実際に記録を照会する。相手の説明を前提に動くんじゃなく、こちらが確認できる範囲から調べる」


 彼は端末を直人へ渡した。


「昨日の移送記録に残っていた管理番号を使ってくれ。個人情報を無理に探す必要はない。権限設定と、設定が変更された時刻だけでいい」


 直人は操作を始めた。


 数分後、照会画面に結果が表示された。


 相互照会の制限は、移送計画が作成された時点から存在していたわけではなかった。


 計画が一度停止されたあと、追加されていた。


「後から設定されたのか」


 直人が言った。


「そうだ。最初から別々に移送する予定だったとしても、互いの所在を確認できなくする設定は、停止後に追加されている」


 彼は変更時刻を確認した。


 それは、旧管理系統による停止承認が記録された時刻の直後だった。


 ただし、承認した人物が設定を追加したとは限らない。時刻が近いことは、関係を疑う理由にはなっても、実行者を特定する証拠にはならなかった。


「変更者は表示されているか?」


「個人名はない。管理系統の識別番号だけだ」


「その番号を控えておいてくれ」


 直人が記録を保存した。


 彼は椅子から立ち上がろうとして、右手に体重をかけないよう注意した。痛みは昨日より強くはなっていないが、まだ自由に使える状態ではない。


「次は、設定が追加された理由を調べる。だが、今日はここから先へは動かない」


「診療所で休むのか?」


「俺の手も、負傷した男の状態も、まだ無視できない。それに、今の段階では、外へ出て確認できることが少ない」


 直人は納得したようにうなずいた。


 追われているからといって、休む時間まで削ればいいわけではない。


 動ける状態を維持することも、計画の一部だった。


     *


 昼過ぎ、負傷した男が診察室から戻ってきた。


 医師からは、短い距離なら歩けるが、長時間の移動は避けるように言われたという。


 彼は男に椅子を勧め、昨日の記録について説明した。


「相互照会の制限が、停止承認のあとに追加されていた」


 負傷した男は、すぐには答えなかった。


「それなら、俺が回収計画から外れたわけではないのかもしれない」


「どういう意味だ?」


「俺の移送先が空欄になったのは、計画が止まったからだと思っていた。だが、二人の所在を照会できなくする設定が追加されたなら、計画の一部は別の形で続いていた可能性がある」


「停止されたのは回収計画そのものではなく、一部の処理だったということか」


「そうかもしれない。ただ、俺にはそれを確かめる権限がない」


 彼は男の言葉を整理した。


 停止命令が出た。


 そのあと、二人の相互照会が制限された。


 さらに、移送記録が更新され、負傷した男の移送先が未登録になった。


 それぞれの操作が、同じ人間によって行われたとは限らない。


 しかし、少なくとも停止承認のあとにも、計画に関係する操作が続いていたことは確認できる。


「三日前の確認役は、停止されたあとも動いていたのか?」


 彼が尋ねると、負傷した男は首を横に振った。


「分からない。ただ、確認役は装置を受け取らなかった。あの時点では、回収を進めるよりも、記録の不一致を調べることを優先していたように見えた」


「それが理由で、登録を解除された可能性は?」


「可能性はある。だが、別の理由で担当から外れたのかもしれない」


 彼はうなずいた。


 確認役が計画に反対したと決めつけることはできない。


 確認役が行ったことは、記録上の不一致を見つけ、引き渡しを止めたこと。それ以上の意図は、本人に聞かなければ分からない。


「確認役の名前を知らなくても、登録を解除した時刻は分かる。まずは、その時刻に誰が管理系統を操作したのかを調べる」


 直人が言った。


「だが、管理番号しか残っていない」


「その番号が使われた場所なら、分かるかもしれない」


 彼は、昨日保存した記録を開いた。


 変更者の識別番号の隣に、操作元の区分が記載されていた。


 遠隔管理端末。


 直人が画面をのぞき込む。


「現場の端末じゃないのか」


「そうらしい。少なくとも、あの搬送施設の管理端末から直接変更した記録ではない」


 彼は記録を拡大した。


 操作元の区分は、施設名ではなく、管理系統の種類を示しているだけだった。具体的な所在地は記載されていない。


 それでも、調べる対象は絞られた。


 現場の回収担当者ではなく、遠隔管理端末を使える権限者。


 その人物が、どのような手続きで相互照会の制限を追加したのか。


 確認すべきことは明確になった。


     *


 夕方、直人の端末に新しい通知が届いた。


 今度は移送記録ではなく、回収計画に関する変更通知だった。


 対象間の相互照会制限を維持する。


 その下に、理由が記載されている。


 移送対象間の接触により、回収手順が変更される可能性があるため。


 直人が画面を見たまま言った。


「理由が書かれている」


「読んでくれ」


「対象同士が接触すると、回収手順が変更される可能性があるから、照会を制限する。そういう意味だ」


 彼は画面を受け取らず、言葉だけを聞いて考えた。


 相互照会を制限する理由が、単なる情報管理ではなく、回収手順の維持にあるとすれば、二人の接触そのものが計画に影響を与えると判断されていることになる。


 しかし、二人が接触することで何が変わるのかは、まだ分からない。


「この通知は、誰が送った?」


「送信元は管理系統。個人名はない」


「なら、こちらから照会を返せるか?」


「通常の返信はできない。ただ、理由の再審査を申請する項目がある」


 彼は少し考えた。


「申請すると、こちらの情報がさらに記録される可能性がある」


「それでも出すか?」


「今は出さない。まず、相互照会を制限することで、実際に何ができなくなるのかを確認する」


 彼は直人に、二人の間で共有できる情報と、共有できない情報を分けて記録するよう頼んだ。


 相互照会が制限されているからといって、二人が直接連絡を取ることまで禁止されているとは限らない。記録上の所在を確認できないことと、連絡そのものができないことは別だ。


 実際、今も直人とは話せている。


 なら、相手が制限した範囲を正確に把握すれば、利用できる手段は残っている。


 そのとき、負傷した男が静かに口を開いた。


「一つ、聞いてもいいか」


「何だ?」


「お前たちは、なぜ俺を助けている?」


 直人が顔を上げた。


 男は二人を交互に見ていた。


「俺を回収しようとしている連中が、装置を欲しがっているのは分かる。お前たちは、その装置を持っていない。それなのに、計画に巻き込まれている」


「だから、見捨てたほうがいいということか?」


「そうは言っていない。ただ、俺がいることで、お前たちが危険になっているのは事実だ」


 彼は少し考えてから答えた。


「俺たちがここまで関わった理由は、一つじゃない。最初は、目の前で起きていることを確認したかった。途中から、俺たち自身も回収対象に指定されていると分かった。今は、その計画がどう動いているのかを調べている」


「俺を助けることが目的ではない?」


「それだけが目的じゃない。だが、だからといって、お前を勝手に引き渡す理由にもならない」


 男は黙って聞いていた。


「俺たちがどこまで関わるかは、俺たち自身が決める。お前も、どこまで話すかは自分で決めればいい」


 負傷した男は、しばらく視線を落としていた。


 やがて、ゆっくりとうなずいた。


「分かった。なら、もう一つだけ話しておく」


 彼は顔を上げた。


「三日前、確認役は俺に装置を渡さなかった。だが、俺がその場を離れる前に、管理担当へ一つだけ指示を出した」


「何を?」


「記録を消すな、と」


 直人が息を止めた。


「それだけか?」


「ああ。理由は説明されなかった。ただ、装置の引き渡しが止まったあとも、記録だけは残すように言っていた」


 彼は、昨日見た記録媒体を思い出した。


 確認役が残した記録。


 別の番号で入力された装置。


 停止承認のあとに追加された相互照会の制限。


 それらが、同じ目的のために行われたとは限らない。


 だが、確認役が記録を残すよう指示したことには、具体的な意味がある。


 少なくとも、三日前の不一致を、なかったことにするつもりはなかった。


 彼は直人に言った。


「明日、管理記録を調べる。確認役の登録解除と、相互照会制限の追加。それぞれの操作が、どの権限から実行されたのかを照合する」


「また現場へ戻るのか?」


「必要なら。ただし、先に記録を確認する。現場に行くのは、そのあとだ」


 彼は端末を閉じた。


 追跡されているからといって、相手の動きに合わせて走り続ける必要はない。


 相手が何を制限し、何を記録し、何を変更したのか。


 その事実を一つずつ確かめれば、相手の計画を理解するための材料になる。


 そして、計画を理解することと、計画に従うことは違う。


 彼は痛む右手をかばいながら、椅子の背にもたれた。


 今夜は、これ以上動かない。


 明日、記録の中から次の行動を決める。

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