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観客のいない世界  作者: 亀


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第307章 記録を持つ者

 扉の向こうで、二度目の解錠音が鳴った。


 作業服の男は端末をしまい、壁際の操作盤を確認した。


「この扉は、内側からなら閉鎖できる。ただし、相手が管理権限を持っていれば、長くは止められない」


「出口は?」


 直人が尋ねた。


「奥に搬送用の通路がある。医療施設につながっているわけじゃない。旧設備の保守区画だ」


「そこから外へ出られるのか」


「出られる。だが、今は使わないほうがいい」


 男は端末を再び取り出した。


「お前たちの移送先が分かれた以上、外へ出た瞬間に別々の車両が待っている可能性がある。ここで追跡を振り切るだけでは、計画そのものは止まらない」


 彼は画面に表示された三人の記録を思い返した。


 自分と直人には移送先がある。


 負傷した男にはない。


 それは単なる入力漏れなのか。それとも、負傷した男だけが別の扱いを受けているのか。


「記録はどこにある?」


 彼は同じ質問を繰り返した。


 作業服の男は一瞬ためらったあと、操作盤の下にある金属製の収納箱を開いた。


 中には、薄い記録媒体が一枚だけ入っていた。


「これだ。三日前の引き渡しを止めたとき、確認役が残していった」


 負傷した男が身を乗り出した。


「それを見せてくれ」


「触るな」


 作業服の男は記録媒体を手に取った。


「これは装置そのものじゃない。引き渡し時の記録だ。お前が持っていた装置の番号、確認役が照合した番号、管理担当が入力した番号。その三つが残っている」


「なぜ今まで渡さなかった?」


「渡す相手がいなかったからだ」


 男は淡々と答えた。


「確認役は、記録を上位の管理系統へ送ると言った。その後、回収計画が停止された。だが、記録を受け取りに来た者はいなかった」


「それで、ここに保管していたのか」


「俺の権限で消すことも、別の場所へ送ることもできなかった。だから残した」


 彼は記録媒体を見た。


 これまで彼らは、何度も回収担当者と確認役の違いを聞かされてきた。しかし、実際に誰が何をしたのかを示す記録はなかった。


 今、目の前にあるのは、その行動を照合できる唯一の資料だった。


「それを持って外へ出れば、回収側に奪われる」


 直人が言った。


「ここに置いても、いずれ奪われる」


「なら、二つに分ける」


 彼は作業服の男を見た。


「記録の内容を確認できる端末はあるか?」


「この区画の管理端末なら、閲覧できる。ただし、接続すれば上位系統に記録が残る」


「閲覧だけでもか?」


「閲覧した事実は残る。内容を書き換える権限はない」


 彼は少し考えた。


「それでいい。まず三つの番号を確認する。記録媒体はここに置いておく」


 負傷した男が不満そうに眉を寄せた。


「持ち出さないのか?」


「持ち出せば、俺たちが持っていると知られる。今必要なのは、記録そのものより、何が違っていたのかを知ることだ」


 男は何か言いかけたが、結局、口を閉じた。


     *


 管理端末は、収納箱の反対側に設置されていた。


 作業服の男が必要な操作を行い、三つの番号を画面に表示させた。


 最初は、回収計画に登録された番号。


 二つ目は、負傷した男が実際に所持していた装置の番号。


 三つ目は、確認役が現場で入力した番号だった。


 最初の番号と二つ目の番号は一致していない。


 それ自体は、三日前から分かっていたことだった。


 しかし、三つ目の番号は、どちらとも一致していなかった。


「確認役は、別の番号を入力していたのか」


 直人が画面をのぞき込んだ。


「そうだ」


 作業服の男は答えた。


「しかも、この番号は回収計画に登録されていない」


 彼は三つ目の番号を見つめた。


「入力したのは確認役本人か?」


「記録上はそうなっている。だが、入力端末を誰が操作したかまでは、この記録だけでは分からない」


「確認役が別の番号を入力した理由は?」


「分からない。ただし、その操作によって、装置の引き渡しは保留された」


 彼は画面の下部を確認した。


 そこには、短い処理記録が残っていた。


 照合不成立。移送停止。管理権限による再確認を要求。


 その直後、別の記録が続いている。


 再確認担当者、未割当。


 直人が小さく息を吐いた。


「止めたあと、誰も引き継がなかったのか」


「少なくとも、この記録には残っていない」


 作業服の男は端末から手を離した。


「だから回収計画は停止した。だが、現場の人間は停止の理由を知らされていない。知っているのは、回収が終わっていないということだけだ」


「それで、停止命令が出たあとも動いた?」


「そうだ。未完了の計画を完了させるために、別の対象番号を使った可能性がある」


 彼は画面を見たまま尋ねた。


「誰が番号を変更できる?」


「通常は計画の担当者だ。ただし、旧管理系統の権限があれば、担当者を介さずに変更を申請できる」


「承認する権限と、実際に変更する権限は別なのか」


「別だ。承認した人間が、現場の記録を書き換えられるとは限らない」


 その説明で、ひとつの関係がはっきりした。


 停止を承認した者が、回収計画の担当者とは限らない。


 そして、計画を再開しようとしている者が、停止を承認した者の権限を持っているとも限らない。


 複数の人間が、それぞれ異なる権限を使って同じ計画に介入している。


 彼は三つの番号を記憶し、直人に画面を撮影するよう頼んだ。


 撮影が終わった直後、端末に新しい通知が表示された。


 閲覧記録を確認。記録媒体の保管者を再照会します。


 作業服の男の顔が険しくなった。


「もう見つかったか」


「何が?」


「この端末を使った人間と、記録媒体の保管場所だ」


 彼は端末から離れた。


「つまり、ここにいることも知られた?」


「正確には、ここにある記録が閲覧されたことを知られた。閲覧者の位置まで分かるかどうかは、相手の権限次第だ」


 扉の向こうで、金属がぶつかる音がした。


 誰かが解錠を試みている。


     *


「奥へ行く」


 作業服の男が言った。


 彼らは管理端末を離れ、保守区画の通路へ移動した。


 負傷した男の歩調はさらに遅くなっていた。直人が肩を貸しているが、長い距離を急ぐのは難しい。


 彼は先に進み、通路の分岐を確認した。


 左側は狭い配管区画。


 右側は搬送用の通路。


 正面には、外部へつながる非常扉がある。


「どれを使う?」


 直人が尋ねた。


「非常扉は避ける。外で待たれていたら終わりだ。右へ進んで、途中で外へ出られる場所を探す」


「その通路も監視されているかもしれない」


「だから、最初の出口からは出ない」


 彼は通路の床に残った車輪の跡を確認した。


 搬送用の台車が最近通った形跡がある。跡は奥へ続いていたが、途中で方向を変え、壁際の小さな扉へ向かっていた。


「ここだ」


 作業服の男が扉を開けた。


 中は、使われなくなった搬送機器の保管場所だった。奥に小さな荷物用リフトがある。


「これで下へ降りられる」


「動くのか?」


「電源が残っていればな」


 男が操作盤を確認すると、表示灯が点灯した。


 リフトは低い音を立てて動き始めた。


 その瞬間、背後の通路で扉が開く音がした。


 続いて、複数の足音。


 追跡者が保守区画へ入ってきた。


「急げ!」


 直人が負傷した男を支え、リフトに乗せた。


 彼が続こうとしたとき、作業服の男が腕をつかんだ。


「記録媒体は置いていくんだな?」


「ああ。ここで奪われても、閲覧した記録までは消せない」


「だが、相手が記録媒体を持ち出せば、別の番号を入力した人間も分からなくなるかもしれない」


「だから、あれを守るためにここで捕まるわけにはいかない」


 作業服の男は短くうなずき、リフトへ乗り込んだ。


 扉が閉まる直前、通路の奥に人影が見えた。


 先頭の男は、追いかけてくる彼らを見ても走らなかった。


 代わりに端末を掲げ、何かを確認していた。


 リフトが下降を始める。


 狭い箱の中で、直人が彼に尋ねた。


「これからどうする?」


「三日前の確認役を探す」


「記録だけで、そいつを特定できるのか?」


「まだできない。だが、確認役が入力した番号と、実際の装置の番号が違う理由を説明できる人間は限られている」


 彼は一度、痛む右手を握りかけてやめた。


「それに、今の連中は記録媒体よりも、俺たちが何を見たかを気にしていた」


「つまり?」


「番号の違いを知ること自体が、相手にとって都合の悪い情報なのかもしれない」


 リフトが停止した。


 扉の外には、古い搬送路が続いていた。


 作業服の男が先に降り、周囲を確認した。


「ここから先は別の施設の管理区域だ。俺の権限では通れない」


「一緒には来ないのか?」


「ここまでだ。俺が離れれば、あの区画の記録媒体を誰が回収するか分からなくなる」


 彼は男の顔を見た。


「それを守るつもりか?」


「守るというより、誰が持ち出すかを確認する。回収計画の担当者が来るのか、停止を承認した側が来るのか。それで、次に動くべき相手が変わる」


 彼はそれ以上、引き止めなかった。


 作業服の男は一人でリフトに戻った。


 扉が閉まる直前、彼は最後に言った。


「一つだけ覚えておけ。記録に残った番号は、装置の所有者を示しているとは限らない」


 リフトが上昇していく。


 直人はその言葉を聞き、彼を見た。


「所有者じゃないなら、何を示しているんだ?」


「今は分からない」


 彼は搬送路の奥を見た。


「だが、少なくとも三日前、誰かが装置を別の番号で登録しようとした。そして、確認役はそれを止めた」


 それが意図的な操作だったのか、別の理由によるものだったのかは、まだ分からない。


 ただ、今回の追跡によって、回収計画の内部に食い違いがあることは確認できた。


 彼らが追うべきものは、もう曖昧なメッセージだけではない。


 番号を入力した人間。


 引き渡しを止めた人間。


 そして、停止命令が出ているにもかかわらず、移送を続けた人間。


 三つの役割を切り分ければ、誰が何をしようとしているのか、少しずつ具体的になるはずだった。


 そのとき、直人の端末が振動した。


 新しい移送記録が届いていた。


 負傷した男の対象番号が変更されている。


 変更前の番号は残っていた。


 変更後の番号には、移送先が記載されていた。


 そして、変更理由の欄には、短い一文が表示されていた。


 旧管理系統による承認を確認。対象の移送を再開する。


 直人が顔を上げた。


「停止を承認した側が、今度は移送を再開したのか?」


「いや」


 彼は画面を見つめた。


「承認を確認した、としか書いていない。誰が再開を決めたのかは、まだ分からない」


 彼は端末を直人へ返した。


「次は、確認役を探す。記録を持っているだけじゃ足りない。三つの番号が、何を意味していたのかを聞く必要がある」


 搬送路の奥から、車両のエンジン音が響いた。


 彼らは足を止めた。


 出口の向こうに、車のライトが二つ見えた。


 今度は、逃げ道を塞ぐために待っているのか。


 それとも、彼らを別の場所へ移送するために来たのか。


 まだ判断できなかった。


 彼は直人と負傷した男を背に庇うのではなく、三人が別々の方向へ動ける位置を取った。


 次に何が起きても、一人が捕まれば全員が戻るという状況だけは避ける。


 ライトがゆっくり近づいてきた。

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