第306章 停止命令の外側
最初から計画に含まれていた。
その一文を読んでから、しばらくの間、彼は画面を閉じなかった。
隣では、直人が窓の隙間から外を確認している。負傷した男は壁にもたれ、包帯の巻かれた腕を押さえていた。
「つまり、俺たちを追っている連中は、最初から俺たちも回収するつもりだったってことか」
直人が振り返った。
「そう考えるのが自然だ。ただし、全員がその計画を知っているとは限らない」
彼は端末をポケットにしまった。
「停止が承認されたのに、再開の申し立てが出ている。次に動くのは、停止を無視できる立場の人間か、停止が届く前から動いていた人間だ」
「どっちにしても、ここに長居する理由はないな」
直人が言った。
負傷した男が顔を上げた。
「移動するなら、東側の道路は使うな」
「理由は?」
「回収担当者が対象を引き渡すとき、確認役が合流する場所だ。俺が三日前に指定された場所も、そこだった」
「その場所が今も使われている保証はない」
「保証はない。だが、使われなくなったという情報もない」
彼は男を見た。
「三日前、お前は確認役に会った。そいつは何を確認した?」
「俺の身元と、持っていた記録装置だ。記録上の番号は一致していた。だが、装置の外側にある刻印が違っていた」
「それで引き渡しを止めたのか」
「ああ。そいつは、記録と実物が一致しない以上、対象を移すなと言った」
負傷した男は一度息を整えた。
「そのとき、装置を見たのは俺と確認役だけじゃない。引き渡し場所の管理担当もいた。そいつは装置を見た直後、確認役に何かを伝えた。声は聞こえなかったが、それから確認役の態度が変わった」
「管理担当は誰だ?」
「名前は知らない。ただ、搬入口の操作権限を持っていた」
彼は直人と目を合わせた。
これまで追ってきたのは、人間と装置と、回収計画の関係だった。
だが、実際に引き渡しを止められる場所にいた人間がいる。
その人物なら、少なくとも三日前の出来事について、具体的な説明ができる。
「その場所へ行く。ただし、正面からは入らない」
「待ち伏せされている可能性があるぞ」
「だから、引き渡しが行われる場所ではなく、管理担当が使った出入口を確認する。人間が同じでも、動線まで同じとは限らない」
直人は短くうなずいた。
負傷した男も立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、壁に手をついた。
「お前はここに残れ」
彼が言うと、男は首を横に振った。
「俺がいなければ、管理担当は話さない」
「お前がいれば話すとも限らない」
「それでも、装置を見分けられるのは俺だ。記録番号だけを見せられても、実物が別物なら分かる」
彼は少し考えた。
負傷した男を連れていけば、移動速度が落ちる。置いていけば、ここを見つけられたときに一人で逃げられる保証はない。
「歩ける距離だけ一緒に来い。途中で無理だと判断したら、直人と移動してもらう」
「分かった」
男は今度は反論しなかった。
*
指定された旧搬送施設は、工業地区の外れにあった。
正面ゲートは閉鎖されていたが、敷地の奥では車両が一台、エンジンをかけたまま停車していた。
彼らは施設から離れた建物の陰に身を置き、入口と車両の位置を確認した。
「一台だけか?」
直人が小声で尋ねた。
「見える範囲ではな」
彼は道路の反射を利用して、背後から近づく車がないか確かめた。
右手はまだ痛む。端末を長く操作するだけでも、指の付け根に鈍い痛みが走った。無理に使えば、いざというときに支えを取れなくなる。
だから、端末の操作と周囲の確認は直人に任せていた。
直人が施設の外壁に沿って伸びる細い通路を指した。
「裏側に扉がある。監視カメラは一台。ただし、今動いているかは分からない」
「近づきすぎるな。まず、車が出るかを見る」
数分後、施設の扉が開いた。
作業服姿の男が一人、薄い書類ケースを持って出てきた。車両には乗らず、道路の反対側へ歩いていく。
直人がその姿を目で追った。
「管理担当か?」
「まだ分からない」
彼は男の歩き方を見た。急いでいるようには見えない。しかし、周囲を確認する回数が多かった。
男が角を曲がる直前、施設の車両が動き出した。
車は正面ゲートではなく、敷地の奥にある別の出口へ向かった。
「分かれたな」
直人が言った。
「車両のほうを追う。あの男は、今は放っておく」
車両を追うといっても、後ろに張りつくつもりはなかった。
彼らは徒歩で移動し、次の交差点から車両が向かった方向を確認した。車は工業地区を抜けず、隣接する小さな荷さばき場へ入っていった。
そこには別の車が待っていた。
荷さばき場のシャッターが半分だけ開く。
中から二人が現れ、一人は車両の運転手に書類を渡した。もう一人は後部座席の扉を開け、車内を確認した。
その瞬間、負傷した男の表情が変わった。
「違う」
彼は声を抑えた。
「何が違う?」
「引き渡しの手順だ。三日前は、先に対象を確認してから装置を受け取る順番だった。今は、対象を確認する前に車を移そうとしている」
「対象はどこにいる?」
「分からない。だが、あの車に乗っているとは限らない」
彼は車両のナンバーを記録した。
その直後、荷さばき場の照明が一斉に点灯した。
直人が顔を上げる。
「こっちを見ている」
シャッターの内側にいた男が、まっすぐ彼らの隠れている方向を指さした。
気づかれた。
「離れるぞ。来た道は戻らない」
三人は建物の裏側へ回った。
直人が先に角を確認し、彼は負傷した男の歩調に合わせた。男の足取りは次第に乱れ、何度か壁に手をついた。
背後から扉の開く音がした。
「走れるか?」
「少しなら」
「少しでいい。角までだ」
三人が通路を抜けたところで、前方の道路に白い車が入ってきた。
直人が足を止めた。
車は急ブレーキをかけず、彼らの進路を塞ぐようにゆっくり停車した。
後部座席の窓が下がった。
車内にいた男は、負傷した男ではなく、彼のほうを見ていた。
「停止命令が出ている。ここで抵抗する必要はない」
男は落ち着いた声で言った。
「誰の命令だ?」
「回収計画の執行側だ」
「停止を承認した権限は無視するのか」
「無視しているわけではない。停止理由の審査中に、対象の移送が必要になった。それだけだ」
彼は男の言葉を聞きながら、車の前輪と後方の道路を確認した。
車の後ろには、もう一台が近づいてきている。
逃げ道を塞ぐ配置だった。
「審査中に移送する必要があるなら、対象が誰で、何を移送するのか説明できるはずだ」
「その説明を受ける権限は、お前にはない」
「なら、俺たちを対象に指定した根拠は?」
男の表情がわずかに変わった。
「お前たちは、計画に含まれている」
「それは根拠じゃない。結論だ」
彼は一歩も前に出なかった。
右手を使って突破することはできない。相手の人数も、車内に何人いるかも分からない。
ここで争えば、負傷した男を守りながら三人で抜けるのは難しい。
直人が視線だけで、左側の狭い通路を示した。
彼は小さくうなずいた。
「最後に聞く。今から連れていくのは誰だ?」
車内の男は、負傷した男に視線を移した。
「まず、そいつだ」
その一言で、目的が分かった。
停止命令が出たあとも、少なくとも現場の執行側は負傷した男を回収するつもりで動いている。
そして、自分たちを捕まえることは、そのための手段なのかもしれない。
「直人、左へ」
彼が言うと同時に、直人が負傷した男の肩を支え、狭い通路へ入った。
後ろで車の扉が開く。
「止まれ!」
怒声が響いた。
三人は走った。
彼は右手を庇いながら、曲がり角の先にある低い柵を避け、壁沿いの通路へ滑り込んだ。負傷した男がつまずき、直人が身体を支える。
その一瞬、彼の右手が壁に触れた。
痛みで視界が揺れたが、立ち止まらなかった。
通路の出口には、古い搬送用の小扉があった。
直人が押しても動かない。
「鍵がかかってる!」
背後の足音が近づく。
彼は扉の横にある操作盤を見た。表示は消えていたが、下部の小さなランプだけが点灯している。
負傷した男が息を切らしながら言った。
「それは管理用の扉だ。装置の引き渡しが停止されたとき、内側から開けられるはずだ」
「はず、か」
「俺は使ったことがない!」
彼は操作盤に手を伸ばしかけ、痛む右手を引いた。
直人が代わりに盤面を確認する。
「番号入力じゃない。カードをかざす形式だ」
そのとき、扉の向こう側から短い電子音が鳴った。
ランプが赤から緑へ変わる。
誰かが、外側から扉の解錠操作を行ったのだ。
扉が数センチ開いた。
向こう側に立っていたのは、先ほど施設から出てきた作業服姿の男だった。
男は三人を見て、すぐに背後の通路を確認した。
「入れ。長くは持たない」
直人が一瞬だけ彼を見た。
彼は相手の顔を覚えながら、負傷した男を先に通した。
三人が扉の向こうへ入ると、作業服の男が扉を閉めた。
外から複数の足音が通り過ぎる。
男は端末を取り出し、画面を確認した。
「停止命令はまだ有効だ。だが、執行側は別の対象番号を使って移送を続けている」
「対象番号を変えれば、同じ人間を別の対象として扱えるのか?」
彼が尋ねた。
「記録上は可能だ。だから、三日前の装置の番号と実物が一致しなかった」
男は端末をしまった。
「お前たちが探しているのは、装置だけじゃない。装置を誰の管理下に置くか、その権限を持つ人間だ」
「なぜ俺たちを助けた?」
作業服の男はすぐには答えなかった。
「停止を承認した側から、現場に一つだけ指示が来ている」
「何だ?」
男は二人を見て、最後に負傷した男へ視線を向けた。
「対象を回収するな。対象の移送記録を確保しろ」
彼はその言葉を頭の中で繰り返した。
人間を連れていくことと、記録を確保することは違う。
そして、誰かが今、現場の人間よりも記録を優先するよう命じている。
作業服の男が小さな端末を差し出した。
画面には、移送記録の一覧が表示されていた。
その中に、彼と直人の識別情報が並んでいる。
しかし、二人の記録には、別々の移送先が指定されていた。
彼の移送先は、旧搬送施設。
直人の移送先は、現在地から離れた医療施設。
負傷した男の移送先は、空欄だった。
「これは何だ?」
彼が尋ねると、作業服の男は答えた。
「三人を同じ場所で回収する計画は、すでに変更されている。お前たちは、別々に移送される予定だった」
画面の下部で、新しい通知が点滅した。
移送記録の確保に失敗。執行権限を再申請します。
作業服の男は顔を上げた。
「ここも、もう安全じゃない」
彼は端末の画面を見たまま、尋ねた。
「記録は、どこにある?」
男は答える前に、扉の向こうで鳴った解錠音を聞いた。
誰かが、反対側から扉を開けようとしていた。




