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観客のいない世界  作者: 亀


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第305章 承認権限

 停止要求が承認されてから、十分も経っていなかった。


 それなのに、俺たちの周囲から人影が消え始めていた。


 追跡者が撤収したのか。それとも、別の命令を待っているのか。


 今の段階では判断できない。


「ここで分かれる」


 端末を持つ男が言った。


「俺が一緒にいれば、お前たちの位置を知られる可能性がある」


「さっきの停止要求は、お前の端末から送ったんだろう。離れれば安全になるのか?」


「安全になるとは言っていない。ただ、俺が追跡されることで、お前たちまで巻き込まれる可能性は減らせる」


 直人は男を見た。


「それなら、停止要求を送った記録をこちらにも残せ」


 男は少し考え、端末の画面を操作した。


 要求番号、送信時刻、承認結果。


 三つの情報が表示された。


 直人は自分の端末で撮影し、保存した。


「これでいい」


 男は端末をしまい、路地の反対側へ歩き始めた。


 数歩進んだところで、一度だけ振り返った。


「一つ忠告しておく。承認した人間を探すな」


「なぜだ?」


「探せば、そいつが何を止めたかったのかではなく、誰を守ろうとしているのかを考えることになる。そうなれば、お前たちは別の計画に巻き込まれる」


「もう巻き込まれている」


 俺が答えると、男は何も言わずに立ち去った。


 直人は、その背中が見えなくなるまで見送った。


「信用できると思うか?」


「判断する材料が足りない。ただ、今夜の停止要求が実際に承認されたことは確認できた」


「なら、次は承認した人間を探すのか?」


「いや」


 俺は首を振った。


「先に、今夜の回収計画がどこまで動いていたのかを整理する。承認した人間を追うのは、その後だ」


 俺たちは、通りから少し離れた場所へ移動した。


 負傷者は壁際に腰を下ろし、呼吸を整えていた。顔色は悪い。これ以上、無理に歩かせるのは危険だった。


 直人が周囲を確認してから、俺に言った。


「今夜の記録を並べよう」


 俺は端末を開いた。


 最初に届いたのは、負傷者を別の男に接触させるなという警告だった。


 その後、回収計画が動き、俺たち二人が対象に指定された。


 さらに、変更の確定前に、第三の選択肢が提示された。


 そして、担当者の連絡不能を理由に停止要求が承認された。


「最初の警告を送った人間と、停止要求を承認した人間が同じとは限らない」


 直人が言った。


「そうだ。むしろ、同じだと決めつけない方がいい」


「ただ、少なくとも誰かは、俺たちが回収されることを望んでいなかった」


「回収された後に何が起きるかを知っていて、止めたかった可能性もある」


 負傷者が顔を上げた。


「それでも、俺たちを助けたとは限らない」


「分かっている」


 俺は彼に向き直った。


「だから、次はお前の話を聞きたい。三日前の回収担当者について、知っていることを全部話してくれ」


 男はしばらく黙っていた。


 やがて、ゆっくりと口を開いた。


「三日前、俺は装置を渡すために、指定された場所へ行った。そこで待っていたのは、回収担当者ではなく、確認役だった」


「さっきも聞いた。確認役は、何を確認する?」


「装置の状態と、俺が本当に指定された対象なのかどうかだ」


「それで?」


「確認役は、俺の識別情報を照合した。だが、結果を見て態度が変わった」


「どう変わった?」


「装置を受け取らず、俺に帰るよう指示した。回収計画は続いているが、俺を回収する必要はなくなった、と言った」


 直人が口を挟んだ。


「それなら、どうして今夜、別の人間が負傷者を回収しようとした?」


「分からない。三日前の時点では、俺の回収は保留になった。その後、計画が変更された可能性がある」


 俺は考えた。


 装置の受け渡しが失敗した。


 確認役が対象の識別情報を照合した。


 その結果、回収の必要性が変わった。


 それなら、今夜の計画は、単純な装置の回収ではなかった可能性がある。


「三日前に、確認役は何か言っていなかったか?」


 俺が尋ねると、男は目を閉じた。


「一つだけ、覚えている」


「何だ?」


「『記録と実物が一致しないなら、対象を移すな』と言った」


 直人が俺を見る。


 俺はすぐに答えなかった。


 記録と実物が一致しない。


 この言葉は、俺たちがこれまで見てきた状況ともつながる。


 同じように見える装置が複数あったこと。


 回収担当者が、要求された装置を受け取らなかったこと。


 そして、対象の移送が成功しても、回収そのものは未完了とされたこと。


 ただし、これらが同じ原因によるものかは、まだ分からない。


「その確認役の名前は?」


「知らない。名乗らなかった」


「顔は覚えているか?」


「覚えている。だが、今ここで説明しても、確実に見つけられるとは思わない」


 俺はうなずいた。


 無理に情報を引き出しても、曖昧な記憶から誤った人物像を作るだけだ。


 そのとき、直人の端末が振動した。


 保存していた停止要求の記録に、新しい更新が届いていた。


 承認結果は変わっていない。


 しかし、承認者の区分が追加されていた。


『承認権限:旧管理系統』


 直人が画面を拡大した。


「旧管理系統って、何だ?」


「今のところ、名称以上のことは分からない」


 俺は記録を保存した。


 その直後、別の通知が表示された。


『停止要求に対する異議申立てを受理』


 俺は画面を見つめた。


「異議申立て?」


 直人が確認する。


「誰が出した?」


 通知には申立人の名前がなかった。


 理由だけが表示されている。


『停止理由の根拠となった担当者の連絡不能は、回収計画の停止を正当化するものではない』


 さらに、最後の一行が続いた。


『対象二名の回収を再開するか、承認権限者による再審査を求める』


 直人が舌打ちした。


「せっかく止めたのに、すぐに覆そうとしているのか」


「まだ再開が決まったわけじゃない」


 俺は画面を閉じた。


「異議が出された以上、承認した側も理由を示さなければならない。そこに時間がかかる可能性はある」


「その間に、また追われるかもしれない」


「そうだ。だから、ここに留まるわけにはいかない」


 俺は負傷者の様子を確認した。


 今夜の回収は止まった。


 しかし、停止を認めない人間がいることも分かった。


 承認権限を持つ者と、回収計画を続けたい者。


 両者の対立が、俺たちの生死に直接関わっている。


 俺は立ち上がり、直人に告げた。


「次は、俺たちを回収する理由を確かめる。誰が承認したかよりも、何を目的にしているのかを先に知る」


 直人がうなずいた。


 負傷者も、ゆっくりと立ち上がった。


 そのとき、端末に新しいメッセージが届いた。


 送信者は不明。


 本文は、短かった。


『回収対象の指定は誤りではない。お前たちは、最初から計画に含まれていた』


 俺はその文章を読み返した。


 対象の変更が誤りではないのなら、誰かが俺たちを偶然巻き込んだわけではない。


 最初から、俺たちを回収する計画が存在していた。


 そして今、その計画を止めようとする側と、続けようとする側が、互いに動き始めていた。

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