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観客のいない世界  作者: 亀


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第300章 次の対象

 排水路の奥で、車のエンジン音が遠ざかっていった。


 俺たちはすぐには動かなかった。


 直人が出口の方向を確認し、負傷者は壁に背を預けて呼吸を整えている。俺の右手は、さっきから断続的に痛んでいた。指を動かすたび、手首の奥に鈍い痛みが走る。


「次の対象って、どういう意味だ」


 直人が負傷者に尋ねた。


「言葉どおりだ。俺を回収できなければ、別の人間を確保する」


「そいつが誰なのか、知っているのか」


「名前までは知らない。ただ、回収計画には優先順位がある。俺は最初の対象だった」


「なぜ、お前が最初なんだ」


 負傷者はすぐに答えなかった。


 俺は彼の顔色と呼吸を見た。傷の状態もよくない。これ以上歩かせれば、途中で動けなくなる可能性がある。


「答えられないのか。それとも、答えたくないのか」


「どちらも違う。俺が知っているのは、回収対象の指定方法だけだ」


 男はポケットを探ったが、何も取り出さなかった。


「指定は人間の名前じゃない。識別番号と、現在の接続先で行われる。対象が移動すれば、指定も更新される」


 直人が顔をしかめた。


「人間を荷物みたいに扱っているわけか」


「そういう仕組みだ。俺が気に入るかどうかは関係ない」


 俺は端末を確認した。


 先ほどの音声ファイルには送信元が表示されていない。再生時間は短く、背景の雑音から場所を特定するのも難しそうだった。


 ただ、最後に小さな電子音が一度だけ入っている。


 俺は音声をもう一度再生した。


「ここを聞いてくれ」


 直人が耳を傾ける。


「最後の音か?」


「ああ。さっきの車の音とは違う。規則的だ」


 短い音が二回、間を置いてもう一回。


 直人は自分の端末を操作し、音声を保存した。


「今は解析できない。だが、比較できる記録があれば、何か分かるかもしれない」


「それで十分だ」


 俺は端末をしまった。


 送信者を特定することよりも、次の対象が誰なのかを確かめる必要がある。


 負傷者が突然、俺の袖をつかんだ。


「病院には行くな」


「今の状態で放置するつもりはない」


「普通の病院に行けば、記録が残る。保険情報、受付時間、搬送経路。あいつらが回収計画を動かしているなら、そこから追跡される」


「なら、どこへ行けばいい」


「俺を引き渡せる場所がある」


 直人が即座に首を振った。


「その場所をお前が決めるのか。さっきの男も、お前を連れていこうとしていた。別の場所に連れていかれて、同じことになる可能性は?」


「だから、場所を教える。俺が先に連絡することはできない。だが、お前たちが連絡すれば、受け入れるかどうかは確認できる」


「連絡先は?」


 男は、記憶をたどるように目を閉じた。


「古い貨物線の管理所だ。線路はもう使われていない。管理所だけが残っている」


 俺は直人と目を合わせた。


 以前から知っている場所ではない。ここで信用する理由もなかった。


「住所を言ってくれ」


 男が地名を告げた。


 直人は地図を開き、位置を確認した。


「ここなら、二つの道路から入れる。出口も複数ある。ただし、周囲に建物が少ない。待ち伏せされたら隠れる場所は限られる」


「それでも、今のままでは長く持たない」


 男の言うことは正しかった。


 選択肢が安全かどうかではない。危険の種類と、こちらが対処できる範囲を比較するしかない。


「連絡するのは俺たちだ。お前は勝手に動くな」


 俺がそう言うと、男は小さくうなずいた。


 直人が先に排水路を出た。


 周囲を確認してから俺たちを呼び、車道から離れた細い道へ案内する。俺は負傷者の歩調に合わせた。右手を使わないようにしても、体を支えるたびに痛みが響いた。


 途中、直人が足を止めた。


「車が一台、こっちを見ている」


 道路の反対側に、白いバンが停まっていた。


 運転席には人影がある。だが、こちらに近づく様子も、すぐに走り去る様子もない。


「さっきの連中か?」


「分からない。ナンバーも見えない」


 俺たちは進路を変えた。


 バンは動かなかった。


 それがかえって気になった。


 追跡するなら、こちらが進路を変えた時点で動くはずだ。そうしないのなら、別の何かを待っているのかもしれない。


 俺は直人に小声で伝えた。


「ここを離れたら、すぐに別の道へ入ろう。あの車を追いかける必要はない」


「分かった」


 俺たちは交差点を渡り、狭い路地へ入った。


 数分後、直人の端末が振動した。


 彼は画面を見て、表情を変えた。


「どうした?」


「今の白いバン、別の場所でも確認されている」


「どこで?」


「古い貨物線の管理所だ。少なくとも、三十分前には停まっていたらしい」


 俺は歩みを止めた。


 俺たちが向かおうとしている場所に、すでに別の車がいる。


 偶然かもしれない。だが、ここまでの出来事を考えれば、偶然として処理するのは危険だった。


「管理所へ行くのは中止だ」


 俺は言った。


 負傷者が反論した。


「そこ以外に、俺を受け入れられる場所はない」


「だからといって、相手が待っている場所へ行く理由にはならない」


「連絡さえ取れれば、向こうが安全な場所を指定できる」


「その連絡が、相手に位置を知らせる仕組みだったらどうする?」


 男は口を閉じた。


 直人が周囲を確認しながら言った。


「まず、管理所に誰がいるのか確かめよう。近づく必要はない。外から見える範囲だけでいい」


 俺は少し考えてからうなずいた。


 管理所へ向かうのではなく、離れた場所から確認する。相手が待ち伏せしているなら、こちらの存在を知らせずに済む可能性がある。


 それでも、問題は残っていた。


 次の対象が誰なのか。


 俺たちがこの男を守ることに時間を使っている間に、別の誰かが連れていかれるかもしれない。


 そのとき、端末に新しいメッセージが届いた。


『対象の変更を確認』


 続けて、地図上の一点を示す位置情報が送られてきた。


 俺は画面を拡大した。


 表示されたのは、古い貨物線の管理所ではなかった。


 少し離れた、現在も使われている小さな運送会社の敷地だった。


 直人が俺の画面を見た。


「そこに何がある?」


 俺は負傷者を振り返った。


 男は位置情報を見た瞬間、顔から血の気が引いていた。


「……そこには、行くな」


「知っている場所なのか」


「俺が三日前に、回収担当者と会った場所だ」


 俺は再び地図を見た。


 位置情報の送信時刻は、たった今だった。


 つまり、誰かが対象を変更し、その場所を俺たちに知らせている。


 だが、それが警告なのか、誘導なのかは分からない。


 直人が静かに言った。


「どうする?」


 俺は画面を閉じた。


「まず、そこにいる人間が誰なのか確認する。助けるべき相手がいるなら、相手の罠かどうかを見極めてから動く」


 負傷者は何も言わなかった。


 その沈黙が、俺には気になった。


 彼は次の対象を知っている。


 そして、その人物が誰なのかを、俺たちにはまだ話していない。

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