第299章 生き残った人間
通路の奥から、足音が近づいてきた。
男は血のついたナイフを握ったまま、動かなかった。
背後には倒れた二人。足元には、さっきまで誰かが探していた記憶装置が落ちている。
俺はそれを見たが、拾わなかった。
「ナイフを置いてくれ」
男の視線が、ゆっくりとこちらへ向いた。
「信用できるのか」
「信用の話じゃない。今、あんたがそれを持っていたら、向こうは話をする前に撃ってくる」
男は一度だけ、通路の奥を振り返った。
足音は三人分。
いや、もう一人いる。
少し遅れて、金属製の扉が開く音がした。
「装置を渡せ!」
先頭の男が叫んだ。
「負傷者もだ。抵抗しなければ、そちらの二人には手を出さない」
直人が通路の陰から姿を現した。服の袖が裂け、額にも傷がある。それでも自分の足で立っていた。
「その言い方、さっきも聞いたぞ」
直人は相手との距離を保ちながら、俺に目を向けた。
「出口は使える。ただし、長くは持たない」
俺はうなずいた。
ここで相手の人数を数えても意味はない。銃を持っている人間が何人いるか、出口まで何秒かかるか、負傷者がどこまで歩けるか。その三つだけを考えた。
「装置はここにある」
俺は地面を指した。
「だが、渡す相手を確認するまでは動かさない」
「お前に確認する権限はない」
「なら、俺から奪えばいい」
相手の表情が変わった。
俺は戦うつもりなどなかった。相手に選択を迫り、こちらへ近づかせる。その数秒が欲しかった。
だが、男は予想と違う動きをした。
ナイフを手放すと、両手をゆっくり上げた。
「俺はそいつらとは行かない」
「誰と行くかを決められる立場だと思っているのか」
「少なくとも、お前たちの命令に従う理由はない」
男の声には、恐怖よりも疲労が混じっていた。
先頭の男が、背後の仲間に短く合図した。
二人が左右に分かれる。
直人が一歩下がった。
「来るぞ」
次の瞬間、通路の照明が消えた。
誰かが電源を落としたのだ。
暗闇の中で靴音が重なり、金属が壁にぶつかった。俺は反射的に負傷者の腕をつかみ、出口の方向へ引いた。
右手に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
力が抜けかける。
男が自分で俺の腕をつかみ直した。
「引っ張るな。歩ける」
「なら、止まるな」
俺たちは壁沿いに進んだ。
背後で直人の声が響いた。
「先に行け! こっちは俺が引き受ける!」
返事をする余裕はなかった。
通路の出口にたどり着いたとき、外に一台の黒い車が停まっていた。ライトは消えている。エンジン音も聞こえない。
逃げ道を確保していた車には見えなかった。
後部座席の窓が下がった。
「乗れ」
低い声だった。
負傷者が立ち止まった。
その反応を見て、俺は車内の人物が彼にとって未知の相手ではないと気づいた。
「……どうして、ここにいる」
「質問は後だ。装置は持ち出したのか」
男は答えなかった。
車内の人物が、少し間を置いて言った。
「持っていないのか」
「置いてきた」
「なら、計画を変更する」
車のドアが開いた。
降りてきたのは、顔に傷のある男だった。暗い服の下に、銃を隠す気配はなかった。彼はそれを手に持ったまま、俺たちから五メートルほどの距離で止まった。
「負傷者をこちらへ渡せ」
俺は男の前に立った。
「理由を聞こう」
「お前に説明する必要はない」
「なら、渡す理由もない」
銃口がわずかに上がった。
俺の右手は、まだ痛んでいた。直人も後方に残っている。ここで抵抗すれば、俺たちのどちらかが撃たれる可能性が高い。
それでも、相手の要求をそのまま受け入れるわけにはいかなかった。
負傷者が俺の背後から言った。
「そいつは、装置を回収しに来たんじゃない」
傷のある男の目が、初めて彼に向いた。
「余計なことを話すな」
「お前が先に聞いたんだろう。装置は持ち出したのか、と」
「黙れ」
その声には、先ほどまでの冷静さがなかった。
俺の端末が短く震えた。
画面には、差出人不明のメッセージが表示されていた。
『あの男を負傷者に接触させるな』
続けて、もう一通。
『そいつは装置を回収しに来たんじゃない』
俺は画面から目を離し、銃を持つ男を見た。
彼は負傷者を見ていた。
装置には、もう視線を向けていない。
「最後に聞く」
俺は声を抑えた。
「この人を連れていって、何をするつもりだ」
男は答えなかった。
代わりに、車の後部座席から別の声がした。
「撃つな。そいつまで死なせる必要はない」
傷のある男の指が、引き金からわずかに離れた。
その一瞬を、負傷者は見逃さなかった。
彼は俺の肩を押し、車とは反対側へ身を投げた。
銃声が夜の空気を裂いた。
弾丸は出口の鉄柱に当たり、火花を散らした。
俺は地面に伏せたまま、負傷者が倒れた場所を確認した。
彼はまだ動いている。
傷のある男は追撃しなかった。銃口を下げ、車内へ視線を向けた。
「予定を変える必要がある」
「いや」
車内の人物が答えた。
「変わったのは予定ではない。こちらの想定だ」
直後、通路の奥から直人が飛び出してきた。
「走れ!」
俺は負傷者の肩を支えた。右手の痛みをこらえ、反対側の腕で体を支える。
三人で車道脇の斜面へ駆け込んだ。
背後から再び銃声が響いたが、弾丸は俺たちの足元には届かなかった。
直人が先に斜面を下り、使われていない排水路へ入った。
俺たちも続いた。
数十メートル進んだところで、ようやく足を止めた。
「今の男、知っているのか」
俺は負傷者に尋ねた。
男は息を整えながら、首を横に振った。
「顔は知らない。だが、あの命令の出し方は知っている」
「どういう意味だ」
「俺を生かして連れていくよう指示した人間がいる。あいつは、その指示を受けている側だ」
「装置は?」
「装置を欲しがっている連中と、俺を欲しがっている連中は別だ」
直人が眉を寄せた。
「それなら、どうして同じ場所に集まった?」
「誰かが、そうなるように仕向けたんだろう」
男はそれ以上話さなかった。
俺も追及をやめた。
今は情報を整理するより、ここから離れることが先だった。直人が連絡手段を確認し、俺は排水路の出口と周囲の道路を確かめた。
そのとき、端末に新しい通知が届いた。
今度は文章ではなく、短い音声ファイルだった。
再生すると、数秒の雑音の後、聞き覚えのない声が流れた。
『回収対象を確保できなかった場合、次の対象へ移行する』
音声はそこで途切れた。
直人が俺の画面をのぞき込んだ。
「次の対象って、誰だ」
俺は答えなかった。
負傷者の顔色が変わっていたからだ。
彼は俺を見ず、暗い排水路の先を見つめていた。
「……俺じゃない」
「何が?」
「次の対象だ。あいつらが俺を回収できなかったとき、次に狙う人間は別にいる」
遠くで車のエンジンがかかった。
俺たちは同時に振り返った。
さっきの黒い車が動き出したのか、それとも別の車なのか、ここからでは判別できない。
ただ一つ、はっきりしたことがあった。
今回の回収は失敗した。
そして、失敗した側は、まだ計画を終わらせるつもりがなかった。




