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観客のいない世界  作者: 亀


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第298章 車内の男

窓の向こうに現れた男は、車内を覗き込んだまま動かなかった。


直人がドアを引いた。


ロックは解除されない。


「窓を開けるな」


主人公は低い声で告げた。


男は二人の顔を順番に見たあと、窓ガラスを指で二度叩いた。


「中にいるのは、二人だけか」


直人は答えなかった。


「質問に答えろ」


「先に名前を聞こうか」


直人が返すと、男はわずかに笑った。


「それは必要ない。お前たちが誰を追ってきたのかは、分かっている」


主人公は男の背後を確認した。


道路を塞いでいる車には、運転手がいない。廃工場の門は半分閉じられ、内側の照明はまだ点灯していた。


ここで長く話す理由はなかった。


主人公は直人に小声で言った。


「相手は、こちらの目的を知っているように振る舞っています。情報を引き出そうとしている可能性があります」


「どうする」


「時間を稼ぎます。外の車が一台だけなのか、確認してください」


直人は視線をわずかに動かした。


男はそれを見逃さなかった。


「無駄だ。ここには俺一人しかいない」


主人公は男を見た。


「それを信じる理由は?」


「信じる必要はない。だが、ここで降りなければ、お前たちは何も得られない」


「降りたら何が得られるんですか」


男は答えず、工場の門を振り返った。


その瞬間、内部から乾いた破裂音が響いた。


一発ではない。


短い間隔で、さらに二発。


直人が反射的に身を低くした。


主人公は窓の外を見た。門の奥で人影が横切り、照明が一つ消えた。


男の表情が変わった。


「……始まったか」


「何が始まった?」


直人が尋ねた。


男は答えなかった。


代わりに、窓から一歩離れ、腰の端末を取り出した。


「予定より早い。回収対象が動いた」


通話の相手は、すぐに応答したらしい。


男は短く告げた。


「二人も現場にいる。こちらで処理する」


主人公はその言葉を聞き逃さなかった。


二人も現場にいる。


つまり、彼らがここへ来ること自体が、相手の想定に含まれていた可能性がある。


直人がドアをもう一度引いた。


今度はロックが解除されていた。


「降りろ」


男が命じた。


直人はすぐに動かなかった。


「先に中で何が起きているか説明しろ」


「お前たちには関係ない」


「なら、俺たちをここへ閉じ込める理由もないはずだ」


男は数秒、直人を見つめた。


それから、道を塞いでいた車へ向かい、運転席に乗り込んだ。


エンジンが始動する。


車が後退し、道が開いた。


「帰るなら今だ」


男は窓越しに告げた。


「だが、次にここへ来たとき、お前たちが探しているものはもう残っていない」


車は工場の門へ向かった。


直人はすぐに追おうとした。


主人公はその腕をつかんだ。


「待ってください。今の言葉は、追わせるための誘導かもしれません」


「だが、内部で何かが起きている」


「だからこそ、入口から入るべきではありません」


主人公は配置図を開いた。


工場の北側には、旧搬送路へ続く細い道路がある。大型車両は通れないが、人が通れる整備用の通路が残っている。


「そちらへ回りましょう。内部の状況が確認できなければ、そこで引き返します」


直人は一瞬だけ迷い、それから頷いた。


二人は車を降り、建物の北側へ向かった。


途中、工場の門が再び開いた。


黒い車が一台、勢いよく飛び出してくる。


その後部には、先ほどの金属ケースが積まれていた。


しかし、ケースの留め具は外れかけている。


車が曲がった瞬間、ケースが荷台から滑り落ちた。


鈍い音が響く。


車は止まらなかった。


そのまま道路の先へ消えていく。


主人公と直人は、同時にケースを見た。


「追うか?」


直人が尋ねた。


主人公は、ケースと工場の門を交互に見た。


落ちたケースを回収すれば、中身を確かめられるかもしれない。


だが、門の内側では、まだ誰かが動いている。


そして、さっきの男は「回収対象が動いた」と言った。


ケースのことなのか。


負傷者のことなのか。


それとも、ここへ来た自分たちのことなのか。


主人公は決断した。


「ケースには近づかないでください。まず、工場の北側を確認します。あれが本当に回収対象なら、誰かが必ず戻ってきます」


二人は整備用の通路へ向かった。


入口には、新しい足跡が残っていた。


一人分ではない。


複数の足跡が、内側から外へ続いている。


その中に、血の跡が混じっていた。


直人が端末を取り出した。


「警察に連絡する」


「お願いします。俺はここで周囲を確認します」


主人公は通路の奥へ目を向けた。


暗闇の先から、かすかな音が聞こえた。


金属が床を擦る音。


そして、誰かの息遣い。


主人公は一歩だけ前へ出た。


「誰かいますか」


返事はなかった。


代わりに、暗闇の中から小さなものが転がってきた。


主人公の足元で止まる。


それは、昨夜、負傷者が持っていたものと同じ形式の記憶装置だった。


直人が息をのんだ。


「どうして、ここに……」


主人公が拾おうとした瞬間、通路の奥で声がした。


「それに触るな」


男の声だった。


「それを持ち出したら、今度はお前が回収対象になる」


主人公は手を止めた。


暗闇の中で、何かが動いた。


そして、声の主が続けた。


「お前たちが追ってきた二台の車は、どちらも囮だ」


短い沈黙。


「本当の回収は、もう終わっている」


主人公は記憶装置から目を離さず、尋ねた。


「何を回収したんですか」


暗闇の向こうから、答えが返ってきた。


「――人間だ」


その直後、通路の照明が点灯した。


主人公の目の前に立っていたのは、昨夜の襲撃で行方が分からなくなった負傷者だった。


だが、男の手には、血のついたナイフが握られていた。


そして彼の背後には、倒れた人間が二人、動かずに横たわっていた。

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