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観客のいない世界  作者: 亀


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第三章 最初の観客

 路地の奥で、青年は動けなくなっていた。


 目の前には、巨大な機械。


 背後には、逃げ場のない壁。


 そして手の中には、祖先から残された古い箱。


 箱の表面に浮かんでいる数字だけが、暗闇の中で淡く光っている。


 接続率――1%


 観測者数――1


「……観測者?」


 青年は小さく呟いた。


 返事はなかった。


「おい」


 先ほどまで聞こえていた声が、突然消えている。


「聞こえてるんだろ?」


 沈黙。


 巨大な機械が一歩前へ進んだ。


 地面が揺れる。


 青年は後退した。


 背中が壁に当たった。


「くそ……」


 機械の腕が上がる。


 逃げる場所はない。


 その時だった。


 箱の中から、低い電子音が鳴った。


 ――ピッ。


 画面が一瞬だけ明るくなる。


 数字が変わった。


 観測者数――2


 青年は目を疑った。


「……増えた?」


 機械の腕が振り下ろされた。


 青年は反射的に横へ飛んだ。


 轟音。


 壁が崩れる。


 瓦礫が頭上から降ってきた。


「うわっ!」


 青年は地面を転がった。


 右腕に痛みが走る。


 血が出ている。


 しかし、まだ動ける。


 青年は立ち上がった。


 目の前の機械を見る。


 装甲は分厚い。


 銃も持っていない。


 逃げ道もない。


 どう考えても勝てない。


 その瞬間。


 箱の画面に新しい文字が浮かんだ。


 支援要請を受信しました。


「支援?」


 青年が呟いた瞬間。


 箱の側面が開いた。


 中から、小さな金属片が飛び出した。


 それは空中で形を変えた。


 細長い棒になる。


 棒の先端が発光する。


 青年は思わず手を伸ばした。


 金属棒が手の中に落ちた。


「何だ……これ」


 握った瞬間。


 頭の中に一つの情報が流れ込んできた。


 ――使用可能。


 ――一回のみ。


 青年は意味を理解できなかった。


 しかし、機械が再び動き始めた。


「……やるしかないか」


 青年は棒を構えた。


 勝てるとは思っていない。


 ただ、死にたくなかった。


 機械が突進してくる。


 青年は横へ飛んだ。


 拳が壁を破壊する。


 その瞬間。


 青年は棒を機械の腕へ突き刺した。


 ――バチッ。


 青白い光が走った。


 機械の動きが止まる。


「……効いた?」


 青年は驚いた。


 だが、すぐに機械が動き始めた。


「嘘だろ……!」


 次の瞬間。


 機械の胸部が開いた。


 内部から赤い光が集まる。


 何かを発射するつもりだ。


 青年は逃げようとした。


 しかし、足が動かなかった。


 恐怖で身体が固まっている。


 死ぬ。


 そう思った。


 その瞬間だった。


 箱の画面に、再び文字が浮かび上がった。


 観測者数――7


 続いて。


 支援値――上昇


 そして。


 青年の身体に、突然力が流れ込んだ。


「……何だ、これ」


 筋肉が熱くなる。


 視界が変わった。


 目の前の機械の動きが、妙に遅く見える。


 青年は考えるより先に動いた。


 右へ。


 そして一歩前へ。


 機械の攻撃を避ける。


 そのまま、金属棒を胸部へ突き刺した。


 ――ドンッ!


 爆発。


 巨大な機械が後ろへ吹き飛んだ。


 青年も地面を転がった。


 耳鳴りがする。


 しばらく動けなかった。


 やがて、ゆっくり顔を上げる。


 機械は動いていない。


「……勝った?」


 青年は自分の手を見た。


 さっきまで震えていた手が、今は静かだった。


 箱を見る。


 表示が変わっている。


 観測者数――12


 支援値――微増


「十二人……?」


 青年は理解できなかった。


 誰が見ている?


 どこから見ている?


 なぜ自分を見ている?


 その時。


 箱から声が聞こえた。


『……見えました』


 青年は顔を上げた。


「お前か?」


『違います』


「じゃあ誰だ」


『あなたを見ている人たちです』


「人たち?」


『はい』


「どこにいる?」


 少し間があった。


『未来です』


 青年は黙った。


 冗談だと思いたかった。


 しかし、目の前に倒れている巨大な機械。


 手の中にある見たことのない武器。


 そして、画面に表示される数字。


 どれも冗談では説明できない。


「……未来の人間が、俺を見てる?」


『正確には、あなたのいる時代を見ています』


「じゃあ、なんで俺に力を送った?」


『あなたを支援したからです』


「支援?」


『あなたが生き残ることを望んだ』


 青年は黙った。


 その言葉が、妙に重かった。


 自分の命を望んだ人間がいる。


 会ったこともない。


 名前も知らない。


 どこにいるのかも分からない。


 それでも。


 自分が死ぬことを望まなかった。


 青年は倒れている機械を見た。


「……俺を助けたのか」


『そうです』


「なら、もう一つ聞く」


『何でしょう』


「どうして俺を見てる?」


 長い沈黙。


 そして。


『あなたが、面白いからです』


「……は?」


『今、未来ではあなたの行動が注目されています』


「面白いって……」


『逃げずに戦ったからです』


「逃げられなかっただけだ」


『それでもです』


 青年は呆れた。


「人が死にかけてるんだぞ」


『知っています』


「なのに面白いのか?」


『はい』


 その返事は、あまりにも自然だった。


 青年は言葉を失った。


 その時。


 遠くからサイレンが聞こえ始めた。


 街の電力も少しずつ戻っている。


 青年は立ち上がった。


 箱を見た。


 表示はまだ消えていない。


 観測者数――12


 その数字の下に、新しい文字が浮かんだ。


 人気順位――圏外


 青年は眉をひそめた。


「……圏外?」


『気にしなくていいでしょう』


「いや、気になるだろ」


『これから変わります』


「何が?」


 返事はなかった。


 代わりに。


 画面の数字が一つ増えた。


 観測者数――13


 その直後。


 遠い未来のどこかで。


 一人の人間が、小さな画面を見ながら呟いた。


「この人、もう少し見てみよう」


 そして、その一言と同時に。


 青年の手の中で、箱が再び光った。


 彼はまだ知らない。


 今夜の戦いによって。


 自分の人生が、未来では一つの「番組」として始まったことを。


 そして。


 最初の観客が生まれたことを。

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