第二章 最後の一人
部屋の中に、知らない声が響いていた。
『あなたが、最後の一人です』
青年は何も答えなかった。
答えられなかった。
目の前には誰もいない。
窓も閉まっている。
ドアも閉まっている。
それなのに、声だけが確かに聞こえている。
「……誰だ?」
ようやく声を絞り出した。
『質問は後にしてください』
「いや、まず説明しろ」
『時間がありません』
「それはこっちの台詞だ」
青年は箱から距離を取った。
スマートフォンを手に取る。
電源は入らない。
部屋の照明もつかない。
だが、箱だけは光り続けている。
その光は強くなったり弱くなったりしながら、まるで何かを探しているようだった。
「停電を起こしたのも、お前か?」
『違います』
「じゃあ誰だ?」
少し間があった。
『まだ、こちらからは言えません』
「こちら?」
『あなたのいる場所とは、少し違う場所です』
「どこだよ」
『遠い場所です』
「どれくらい?」
また沈黙。
『……時間にして、およそ八百年』
青年は言葉を失った。
冗談だ。
そう思った。
誰かが自分をからかっている。
それ以外に説明できない。
「八百年?」
『はい』
「未来から通信してるってことか?」
『その表現なら、近いです』
「近い?」
青年は笑った。
笑うしかなかった。
「そんなことできるわけないだろ」
『普通は、そう考えます』
「普通じゃないなら何なんだよ」
『あなたの先祖が、最初に見つけたものです』
青年は黙った。
箱を見る。
古い木箱。
曽祖父の名前が書かれたノート。
六十年前の写真。
そして、未来からの通信。
全部が一本の線になり始めていた。
「……先祖は何をした?」
『知りたいですか?』
「当たり前だろ」
『なら、最初のページから最後まで読んでください』
「それだけ?」
『それだけです』
「だったら、なんで直接教えない?」
『記録に残されている情報と、私たちが知っている情報には違いがあります』
「どういう意味だ?」
『あなた自身が確かめる必要があります』
青年はノートを開いた。
最初のページ。
二ページ目。
三ページ目。
そこには、曽祖父が経験した奇妙な出来事が細かく書かれていた。
ある日、見知らぬ人物が現れた。
その人物は、当時存在しなかった技術を持っていた。
医療。
通信。
エネルギー。
製造技術。
どれも当時の人間には理解できないものだった。
最初、曽祖父はその人物を外国人だと思ったらしい。
しかし、会話を続けるうちに違和感に気づいた。
その人物は、この時代の人間ではなかった。
さらにページをめくる。
曽祖父は、その人物と協力関係を結んだ。
技術を受け取る代わりに、いくつかの資源を提供した。
それだけなら、単なる秘密取引だった。
だが。
数年後。
曽祖父はあることに気づいた。
自分たちが提供していたものは、資源だけではなかった。
情報だった。
人間の行動。
政治情勢。
戦争。
経済。
流行。
死亡者数。
出生数。
そして、人々の生活。
すべてが記録されていた。
青年はページをめくる手を止めた。
「……何のために?」
『続きを読んでください』
声が答える。
青年は読み進めた。
最後の方に、一枚の紙が挟まっていた。
そこには、曽祖父の字で大きく書かれていた。
――彼らは歴史を見ているのではない。
――歴史を作っている。
青年は息を止めた。
「……作っている?」
『その意味は、まだ分からないでしょう』
「どういうことだ?」
『あなたの時代では、歴史は過去に起きたものだと思われています』
「違うのか?」
『少なくとも、私たちが知っている歴史は、そんなに単純ではありません』
その瞬間。
遠くから、爆発音が聞こえた。
青年は窓へ走った。
街の向こう側。
夜空が一瞬だけ赤くなった。
続いて、二度目の爆発。
今度は近い。
「何だ……?」
街の中で人々が騒ぎ始める。
車が急停止する。
誰かが叫んでいる。
青年は窓を開けた。
冷たい風が入ってきた。
そして見た。
道路の中央に、巨大な黒い機械が立っていた。
人間の形をしている。
しかし、人間より二回りほど大きい。
装甲の隙間から赤い光が漏れている。
周囲の車を押しのけながら、ゆっくり歩いていた。
「何だ、あれ……」
『逃げてください』
声が初めて強い調子になった。
「何?」
『今すぐ、その部屋から出てください』
「理由を言え」
『あなたを探しているものです』
青年は窓から機械を見た。
その頭部がゆっくり動く。
そして。
こちらを向いた。
青年の背中に冷たいものが走った。
「……こっちを見た」
『走ってください』
窓ガラスが砕けた。
青年は反射的に床へ倒れ込んだ。
巨大な腕が部屋を横切る。
机が吹き飛ぶ。
箱が床へ落ちる。
青年は転がりながら箱を掴んだ。
「お前、これを知ってたのか!」
『予測していました』
「だったら最初から言えよ!」
『言えば、あなたは箱を持って逃げるでしょう』
「当たり前だ!」
『その場合、接続が切れます』
「……何?」
『だから、ここまで待つ必要がありました』
青年は理解できなかった。
だが、考える時間はなかった。
壁が崩れた。
巨大な機械が部屋の中へ手を伸ばしてくる。
青年は箱を抱え、反対側のドアへ走った。
階段を駆け下りる。
背後で爆音が響く。
建物が揺れる。
外へ出る。
街は混乱していた。
人々が逃げている。
警察車両が道路を塞いでいる。
だが、銃撃は機械の装甲にほとんど効果がない。
青年は路地へ入った。
「どこへ行けばいい!」
『東へ』
「理由は?」
『三百メートル先に、地下施設があります』
「そんなもの知らないぞ!」
『あなたの祖先が作りました』
青年は走った。
足が痛い。
息が苦しい。
何度も転びそうになる。
それでも走る。
その時。
背後から轟音が響いた。
巨大な機械が路地の入口に現れた。
青年は振り返った。
逃げ道はない。
機械の腕が上がる。
青年は箱を抱えたまま立ち尽くした。
『……まだです』
声が聞こえた。
「何が?」
『あなたの物語は、まだ始まったばかりです』
箱が突然、強烈な光を放った。
次の瞬間。
青年の目の前に、見たことのない文字が浮かび上がった。
接続率――1%
そして。
その数字の下に、もう一つの表示が現れた。
観測者数――1
青年は、その数字の意味を知らなかった。
ただ一人。
遥か未来で。
誰かが初めて、彼を見つめていた。




