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観客のいない世界  作者: 亀


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第一章 古い箱

その箱は、祖父の部屋の奥に置かれていた。


 古い木箱だった。


 大きさは、両手で抱えられるほどしかない。


 表面には何年も積もった埃が薄く残り、角の部分は擦れて白くなっている。


 鍵はなかった。


 ただ、蓋の中央に小さな金属板が埋め込まれていた。


 そこには、見慣れない記号が一つだけ刻まれていた。


 青年はしばらく、その箱を眺めていた。


「これ……何だ?」


 祖父が亡くなってから、まだ三日しか経っていない。


 家の中には親戚が出入りし、古い家具や書類を整理していた。


 その中で、青年は偶然この箱を見つけた。


 祖父の部屋には、古い写真や帳簿が大量に残されていた。


 しかし、この箱だけは妙だった。


 家族の誰も存在を知らなかった。


 父親に聞いても、


「そんなもの、見たことない」


 という答えしか返ってこなかった。


 青年は箱を持ち上げた。


 思ったより軽い。


 中身が空なのかと思った、その瞬間だった。


 金属板が淡く光った。


「……え?」


 青年は手を止めた。


 光は一瞬で消えた。


 何も起きなかった。


 気のせいだろう。


 そう思って箱を机の上に置いた。


 そして、もう一度触れた。


 今度は何も起きない。


「壊れてるのか?」


 独り言を言いながら、箱を裏返した。


 底に、小さな文字が刻まれていた。


 古い日本語だった。


 だが、その文章は奇妙だった。


 普通なら、


 「開けるな」


 とか、


 「重要書類在中」


 とでも書かれているところだ。


 しかし、そこには短くこう書かれていた。


 ――見るな。


 青年は眉を寄せた。


「見るなって……何を?」


 箱をもう一度見た。


 その時だった。


 机の上に置いていたスマートフォンが突然震えた。


 着信だった。


 知らない番号。


 画面には、番号以外何も表示されていない。


 青年は少し迷ってから、通話ボタンを押した。


「もしもし?」


 返事はなかった。


 ただ、微かな雑音が聞こえた。


 ザーッという音。


 通信状態が悪い時のような音だった。


「もしもし?」


 やはり返事はない。


 数秒後。


 突然、声が聞こえた。


『……聞こえますか』


 青年は固まった。


 日本語だった。


 だが、声の質がおかしい。


 若い男にも聞こえる。


 老人にも聞こえる。


 機械の音声にも聞こえた。


「誰ですか?」


『その箱を見つけましたね』


「……」


 青年は無意識に箱を見た。


『まだ開けないでください』


「あなたは誰なんですか?」


『質問する時間は、あまりありません』


「いや、こっちは何も――」


『あなたの名前は――』


 そこで通信が途切れた。


「もしもし?」


 スマートフォンの画面には、通話終了の表示が出ていた。


 青年はしばらく動かなかった。


 部屋の中は静かだった。


 外では車が走っている。


 隣の家からテレビの音が聞こえる。


 何も変わっていない。


 それなのに、さっきまでとは世界の見え方が違っていた。


 青年はスマートフォンを机に置いた。


 そして箱を見た。


 開けるな。


 そう言われた。


 普通なら、そこでやめる。


 だが、人間というものは、見るなと言われれば見たくなる。


 青年は箱を手に取った。


 蓋には鍵穴がない。


 蝶番もない。


 どうやって開けるのか分からない。


 何度か触っているうちに、中央の金属板が再び光った。


 今度は、はっきりと光った。


 箱の表面に細い線が走る。


 まるで木材そのものが分離していくように、蓋がゆっくりと開いた。


 中には、一冊の古いノートが入っていた。


 紙は黄ばんでいる。


 表紙には名前が書かれていた。


 青年は、その名前を知っていた。


 自分の曽祖父の名前だった。


「……なんで?」


 青年はノートを取り出した。


 最初のページには、日付が書かれていた。


 今から六十年以上前。


 そして、その下に一行だけ文章があった。


 ――もし、この記録を読む人間がいるなら、まだ間に合う。


 青年は息を止めた。


 ページをめくる。


 最初の数ページには、祖父母の世代には存在しなかったはずの技術について書かれていた。


 見たこともない装置。


 理解できない通信方法。


 そして、ある「人間」について。


 文章の中では、その人物を一貫してこう呼んでいた。


 ――未来から来た者。


 青年は苦笑した。


「……SFじゃないんだから」


 そう呟いた。


 しかし、次のページを開いた瞬間。


 その表情から笑いが消えた。


 そこには、古い写真が貼られていた。


 写真には五人の人間が写っている。


 曽祖父。


 見知らぬ三人。


 そして、もう一人。


 青年はその人物を見て、手を止めた。


 写真の中の男は、現代の服を着ていた。


 それだけなら問題はない。


 問題は、その写真の日付だった。


 撮影されたのは、六十年前。


 しかし男が身につけている腕時計は、青年が現在使っているものとまったく同じ型だった。


「……ありえない」


 青年は写真を裏返した。


 裏側には、祖先の字で短い文章が残されていた。


 ――彼らは私たちを見ている。


 ――そして、私たちの未来も知っている。


 その下には、さらに一行。


 ――もし彼らが再び現れたなら、絶対に信じるな。


 青年は黙った。


 部屋の時計だけが、一定の間隔で音を刻んでいる。


 その時。


 机の上のスマートフォンが、もう一度震えた。


 画面を見る。


 今度は着信ではなかった。


 見覚えのない通知だった。


 青年は通知を開いた。


 そこには、たった一つの文章が表示されていた。


 「あなたを見つけました。」


 青年の指が止まった。


 そして、数秒後。


 スマートフォンの画面が突然暗くなった。


 部屋の照明も消えた。


 冷蔵庫の音が止まる。


 窓の外を走っていた車のライトが、一斉に消えた。


 街全体が、静かになった。


 青年は窓へ向かった。


 遠くに見える建物も、道路も、信号も。


 すべての明かりが消えている。


「停電……?」


 そう呟いた瞬間。


 暗闇の中で、箱だけが光った。


 その光の中央に、一つの文字が浮かび上がる。


 ――接続開始。


 青年は初めて理解した。


 これは、祖先が残した遺品ではない。


 誰かを待っていた。


 ずっと昔から。


 そして、その「誰か」が今、この場所にいる。


 箱の光が強くなる。


 青年は一歩だけ後ろへ下がった。


 しかし、逃げることはできなかった。


 なぜなら。


 その瞬間、部屋の中に――


 自分以外の人間の声が響いたからだ。


『ようやく、繋がりました』


 青年は暗闇の中で息を呑んだ。


『あなたが、最後の一人です』


 その言葉の意味を、まだ彼は知らなかった。

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