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観客のいない世界  作者: 亀


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第293章 回収対象

負傷した男が目を覚ましてから、三時間が経過していた。


救護室の担当者は、何度か事情を尋ねたが、男は必要なことしか話さなかった。


地下通路に入った理由。


誰と一緒だったのか。


何を探していたのか。


いずれにも、明確な回答はなかった。


ただ、男は一つだけ繰り返した。


「容器を、あいつらに渡すな」


管理者がその言葉を記録した直後、救護室の外で物音がした。


担当者が廊下へ出ると、非常口の扉が半開きになっていた。


警報は鳴っていない。


廊下の監視端末にも、異常は表示されていなかった。


担当者は管理者へ連絡し、救護室の扉を施錠した。


その数秒後、照明が消えた。


非常灯が点灯するまでの短い暗闇の中で、救護室の扉が強く叩かれた。


「開けろ」


聞こえたのは、低い男の声だった。


「中にいる人間を引き渡してもらう」


管理者は、扉を開けなかった。


「所属と要件を示してください」


返答はなかった。


代わりに、扉の外側で金属音が響いた。


鍵を壊そうとしている。


管理者は救護室内の緊急通報を作動させ、担当者に負傷者を奥へ移動させるよう指示した。


男は、ベッドから身体を起こそうとしていた。


「動けるのか」


担当者が尋ねると、男は首を横に振った。


「無理だ。だが、ここにいれば全員巻き込まれる」


扉の向こうから、再び声がした。


「最後に言う。対象を引き渡せ」


男の表情が変わった。


「……対象?」


彼は、担当者の顔を見た。


「俺を連れ戻しに来たんじゃないのか」


その直後、扉が内側へ歪んだ。


管理者は、救護室の隣にある備品庫へ通じる非常扉を開いた。


「こちらへ。今のうちに移動してください」


男は壁に手をつきながら立ち上がった。


三歩進んだところで、足の痛みに耐えきれず、膝をついた。


担当者が支えようとした瞬間、廊下の向こうで破裂音が響いた。


扉の固定具が外れたのだ。


管理者は非常扉を閉め、外側から施錠した。


侵入者が救護室へ入ったとき、室内には誰もいなかった。


男たちは部屋を調べた。


ベッドの上には、血の付いた包帯が残されている。


だが、負傷者の姿はなかった。


一人が端末を取り出し、短い報告を送った。


「回収対象を確認できず。現地での追跡を継続する」


返答は、すぐに届いた。


『容器を優先しろ。対象の確保は二次任務だ』


男は画面を見たあと、端末をしまった。


侵入者たちは、救護室を離れた。


彼らが探しているのは、負傷した男だけではなかった。


一方、管理者は非常扉の先にある通路を進み、負傷者を旧訓練場の管理室へ運んでいた。


そこは、現在の施設管理系統とは独立した小さな区画だった。


扉を閉めると、管理者はようやく息をついた。


「いったい、何を持ち出したんですか」


男は答えなかった。


しばらくしてから、ポケットの中を探り、小さな記憶媒体を取り出した。


「これを渡すために来た」


「誰に?」


「本来の回収担当者にだ」


管理者は、記憶媒体を受け取らなかった。


「あなたが誰なのかも、何を回収しようとしていたのかも分かりません。説明がないまま、預かることはできない」


男は、疲れたように目を閉じた。


「そうだな。あんたの判断は正しい」


彼は記憶媒体を握り直した。


「だが、あいつらが探しているのは、俺じゃない。俺が持っている情報でもない」


管理者は黙って続きを待った。


「容器の中にあるものだ」


その言葉を聞いたとき、管理者は北側廃棄施設の事件を思い出した。


二つの現場で、同じ管理系統の識別情報が見つかっている。


そして今、負傷した男は、容器そのものが狙われていると話している。


管理者は直人へ連絡を入れた。


直人は話を聞き終えると、主人公へ情報を転送した。


主人公は、届いた内容を読み、すぐに返信した。


『その男が持っている記憶媒体には、何が記録されている?』


直人からの返事は、まだなかった。


代わりに、主人公の端末へ新しい匿名通知が届いた。


『次に狙われるのは、保管場所ではない』


主人公は、画面を見つめた。


その下に、もう一行だけ文章が表示された。


『回収担当者が到着する前に、第三者を排除する必要がある』


主人公は、すぐに直人へ通知を転送した。


今度の文章は、警告というより、誰かが次の行動を決めたことを知らせるものに見えた。


そして、その行動が誰に向けられているのかは、まだ分からなかった。

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