第二十七章 箱の向こう側
青年が屋上から降りた翌朝。
都市には、特別な変化はなかった。
店は開く。
道路には車が走る。
学校へ向かう子供たちがいる。
工場では機械が動き始める。
昨日までと同じ朝だった。
少なくとも。
都市に住む大多数の人間にとっては。
青年は人混みの中を歩いていた。
古い箱は。
鞄の中に入っている。
昨夜、箱に表示された最後の項目。
――出演者側からの接続要求。
あれが何を意味するのか。
まだ分からない。
ただ。
以前とは違う。
今までは。
未来側から接続されていた。
未来側から支援が来る。
未来側から情報が来る。
未来側から観測される。
しかし。
昨夜は。
自分から接続を要求できるようになっていた。
青年は歩きながら考えた。
「……何を聞けばいいんだ」
直人が隣から答えた。
「未来のことじゃないですか?」
「何を?」
「全部」
「全部は無理だろ」
「じゃあ、一つ」
「一つなら選ばないとな」
直人は少し考えた。
「この箱を作った人について」
青年が足を止める。
「祖父のこと?」
「もっと前」
「曾祖父?」
「はい」
青年は鞄を見た。
古い箱。
祖先の記録。
未来との接続。
そして。
最後に残された情報。
「……聞いてみるか」
*
二人は。
以前使った地下施設へ向かった。
入口は。
すでに閉鎖されている。
だが。
箱を近づけると。
壁の一部が静かに開いた。
直人が驚く。
「まだ使えるんですね」
「らしいな」
二人は中へ入った。
地下施設には。
以前よりも多くの表示が残っていた。
しかし。
そのほとんどは停止している。
青年が中央装置に箱を置く。
画面が点灯した。
――接続要求。
――接続先を選択してください。
その下に。
三つの選択肢が表示される。
【観測者】
【運営】
【過去記録】
青年は黙った。
「どうします?」
直人が聞く。
「過去記録」
「未来じゃないんですか?」
「先に知りたい」
「何を?」
「俺の曾祖父が、何を知っていたのか」
青年が選択する。
画面が暗くなる。
数秒後。
古い映像が表示された。
*
映像の中に。
一人の老人がいた。
青年には。
すぐに分かった。
曾祖父だ。
写真でしか見たことがない。
しかし。
動いている。
声を出している。
生きている。
『記録を開始する』
老人は机に座っていた。
『これを誰が見るのかは分からない』
画面の向こうから。
別の声が聞こえる。
『記録を残す必要がありますか?』
『必要だ』
『理由は?』
老人は少し考えた。
『未来の人間が、過去を見ているからだ』
『それが問題ですか?』
『問題かどうかは分からない』
青年は画面を見つめた。
その言葉。
どこか聞き覚えがあった。
『ただ』
老人が続ける。
『見ることと、理解することは違う』
別の声。
『理解する必要がありますか?』
『いや』
老人は首を振った。
『理解できないまま見ることもある』
映像が一瞬乱れた。
『だが、もし未来の人間が、この時代の人間を自分たちの都合で変え始めたら』
老人は。
初めて強い表情を見せた。
『その時は、記録を残す必要がある』
『何を?』
『変えられる前の選択を』
*
青年は黙っていた。
直人も。
何も言わなかった。
映像は続いている。
『私たちは、彼らを止められない』
『なぜです?』
『力が違いすぎる』
『では、何をするのですか?』
老人は笑った。
『何もしない』
青年が眉を寄せる。
『何もしないことが、抵抗になる場合もある』
その言葉の後。
画面が切り替わった。
別の映像。
街。
工場。
学校。
市場。
人々が暮らしている。
特別なことは何もない。
そして。
画面の端に。
一つの数字が表示されていた。
――観測者数。
青年は目を見開いた。
「……この時代から?」
直人も画面を見る。
「観測されていた?」
数字は。
少なかった。
十人。
二十人。
五十人。
だが。
確かに存在していた。
*
未来。
女性の管理室。
突然。
一つの警告が表示された。
――過去記録へのアクセス。
彼女は画面を見る。
「誰が?」
「地上側です」
「青年?」
「はい」
女性は少し考えた。
「アクセス権限は?」
「通常ならありません」
「なら、なぜ?」
「古い接続装置を使っています」
女性は画面を開いた。
そこには。
青年と直人が映っている。
彼らは。
曾祖父の記録を見ている。
女性はその映像をしばらく見た。
「止めますか?」
部下が聞いた。
女性は答えなかった。
「管理者権限なら、切断できます」
「分かっている」
「では?」
「……そのまま」
部下が少し驚く。
「記録には、運営側の機密情報も含まれています」
「分かっている」
「それでも?」
「彼が何を見るかを、こちらで決める必要はない」
女性は画面から目を離さなかった。
「少なくとも、今は」
*
地下施設。
映像は最後の場面に入っていた。
曾祖父が。
一枚の紙を箱の中へ入れている。
『もし、この記録を見る人間がいるなら』
老人はカメラを見る。
『おそらく、私はもういない』
少し笑った。
『だが、それは重要ではない』
紙を箱へ入れる。
『重要なのは』
一拍。
『あなたが、何を選ぶかだ』
映像が止まった。
画面に。
新しい文字が浮かぶ。
――過去記録、終了。
青年は。
しばらく動かなかった。
「……結局」
直人が言う。
「曾祖父も、何も決めてくれなかったですね」
青年は笑った。
「そうだな」
「もっと答えが欲しかった?」
「少し」
「でも?」
「これでいい」
青年は箱を持ち上げた。
その瞬間。
画面に。
新しい通知が表示された。
――接続要求を確認。
――接続先から応答。
青年が振り返る。
「……応答?」
地下施設の奥から。
古い通信音が響いた。
未来側ではない。
運営側でもない。
過去記録でもない。
第三の接続。
画面に。
見慣れない文字が一つだけ表示された。
――同時代接続。
青年は。
直人を見る。
「これ……」
「誰かが」
直人が言った。
「こっちから繋いでいるんじゃなくて」
二人は画面を見た。
「向こうから、こっちを見つけた?」
通信が始まる。
ノイズの向こうから。
人の声が聞こえた。
『……聞こえますか』
青年は答えた。
「聞こえる」
少しの沈黙。
そして。
『よかった』
声の主は。
未来の人間ではなかった。
少なくとも。
その声は。
未来の接続装置から聞こえるものとは違っていた。
『あなたたちも、見られているんですね』
青年の表情が変わった。
「……あなたは誰だ?」
返事は。
すぐには来なかった。
やがて。
『私も、まだ分かりません』
その言葉に。
青年は。
思わず笑った。
世界は。
まだ終わっていなかった。
そして。
知らない誰かが。
どこかで。
同じように。
自分の人生について考えている。
その事実だけが。
新しい物語の入口になった。




