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観客のいない世界  作者: 亀


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第234章 残る理由

翌朝、主人公が倉庫へ着くと、責任者が入口で待っていた。


「おはようございます。今日は少し予定を変更します」


責任者は、作業員たちが集まるのを待ってから説明した。


昨日まで整理していた区画のうち、二つは予定どおり作業を終えられそうだった。しかし、残る一つについては、保管場所の都合で作業を続けられなくなったという。


「今日中に終わらせる必要はありません。移動先が決まるまでは、別の作業を進めてください」


主人公は頷いた。


予定が変わること自体は、珍しくない。


ただ、変更があったときに、何を続けられて何を止めるべきなのかが分かれば、無駄な作業を減らせる。


彼は、責任者の指示に従って別の区画へ移動した。


レイヴンも、同じように配置を変えられていた。


彼は新しい作業場所を確認すると、担当者に道具の置き場所を尋ね、説明を受けてから仕事を始めた。


その姿を見て、主人公は、彼が今日で参加期間を終える予定だったことを思い出した。


だが、レイヴンは普段と変わらない様子だった。


特別に別れの挨拶をすることもなく、延長について誰かに尋ねることもない。


仕事があるから働く。


指示が変われば、それに合わせて動く。


少なくとも、外から見える範囲では、そういう態度だった。


午前中の作業が終わる頃、責任者がレイヴンを呼んだ。


二人は事務所へ入り、しばらく話をしていた。


主人公には、内容は聞こえなかった。


やがてレイヴンが事務所から出てきた。


彼は作業員たちに挨拶し、主人公のところにもやってきた。


「少し、お話ししてもいいですか」


「何だ?」


「今日で、こちらの仕事はいったん終わることになりました」


主人公は頷いた。


「そうか。お疲れさま」


「ありがとうございます。あなたと一緒に働けて、参考になることがいくつもありました」


「俺は、いつもどおり仕事をしていただけだ」


「それでも、人によって仕事の進め方は違いますから」


レイヴンは、少しだけ笑った。


「一つ、聞いてもいいですか」


「何だ?」


「もし、ここで働き続けることができるとしたら、あなたは何を大切にしますか」


主人公は、すぐには答えなかった。


仕事を続けるために必要なことは、いくつもある。


賃金。労働時間。身体への負担。仕事の安定性。周囲の人間との関係。


どれか一つだけを見て決められるわけではない。


「まず、無理なく続けられるかどうかを考えると思う。仕事ができても、身体を壊したら続けられない。賃金がよくても、条件が分からなければ予定を立てにくい」


「人間関係は?」


「大切だと思う。ただ、人間関係だけで仕事を決めるわけでもない」


レイヴンは静かに聞いていた。


「一緒に働く人がいい人でも、仕事そのものが続けられないことはある。反対に、仕事の条件がよくても、誰かに無理を押しつけるような場所なら、長く続けるのは難しいかもしれない」


主人公はそこで言葉を切った。


「結局、何を優先するかは、その人の状況によると思う」


レイヴンは頷いた。


「そうですね。ありがとうございます」


彼はそれ以上、質問をしなかった。


     *


昼休みが終わる前に、責任者が作業員たちを集めた。


レイヴンの仕事は、その日の午前中で終了する予定だった。


しかし、午後に予定されていた別の作業員が急きょ来られなくなり、整理作業の一部を進める人手が足りなくなったという。


責任者は、レイヴンに確認した。


「もし都合がつくのであれば、今日の午後だけ手伝ってもらうことはできますか。もちろん、追加の勤務として扱います」


レイヴンは、すぐには答えなかった。


「作業内容は、今までと同じですか」


「一部は同じですが、別の区画での整理になります。詳しい内容は、担当者から説明します」


「分かりました。時間と条件を確認させてください」


責任者は、勤務時間と賃金について説明した。


レイヴンは内容を確認し、午後の勤務を引き受けた。


主人公は、そのやり取りを見ていた。


彼は、単に仕事があるからと引き受けたわけではない。


条件を確認し、納得できる範囲で判断した。


その結果、当初の予定より少し長く、この場所に残ることになった。


午後の作業は、予定どおり進んだ。


レイヴンは、ほかの作業員と協力しながら、整理を終わらせた。


仕事が終わると、責任者は追加勤務分の記録を確認した。


「今日は助かりました。また応援が必要になった場合は、改めて連絡することがあるかもしれません」


「ありがとうございます。そのときは、条件を確認してから返事をします」


レイヴンはそう答え、倉庫を出ていった。


主人公は、彼の背中を見送った。


これで、しばらく会うことはないかもしれない。


短期の応援で来た人間なのだから、そうなっても不思議ではなかった。


主人公は、特別な感情を抱くことなく、自分の仕事を片づけた。


     *


その夜、運営フロアでは、レイヴンの参加期間について最終評価が行われていた。


女性管理者は、現地側から届いた報告を確認した。


作業の適応速度は高い。


周囲との協力関係にも問題はない。


指示の変更に対しても、無理に自分の判断を押し通すことはなかった。


評価としては、良好だった。


しかし、競合側からは、延長を希望する正式な申請が届いていた。


理由は、現地環境への適応が順調であり、参加期間を延ばせば、さらに高い成果が得られる可能性があるというものだった。


女性管理者は、申請内容を確認した。


「延長期間は?」


担当者が答えた。


「当初の七日間に加えて、さらに七日間を希望しています」


「活動範囲は?」


「現状の維持を希望していますが、状況に応じて追加申請を行うとのことです」


女性管理者は、しばらく考えた。


延長そのものに、問題があるわけではない。


現地側の評価も悪くない。


ただし、競合側が期待している成果が、必ず得られるとは限らない。


彼女は、延長を認めることにした。


条件は、これまでと同じだった。


活動範囲を維持すること。


権限の追加は別途申請すること。


現地側の評価を継続して確認すること。


承認の通知を送ると、担当者が尋ねた。


「これで、競合側との関係も少し改善するでしょうか」


「それは分かりません」


女性管理者は答えた。


「相手が何を期待しているのか、すべて分かっているわけではありませんから」


「それでも、受け入れるのですね」


「今の条件であれば、管理できる範囲だと判断しました。相手の期待を満たすためではありません」


担当者は頷いた。


女性管理者は、承認した条件を保存した。


これで、レイヴンは引き続き同じ時代に参加できる。


しかし、それは彼が自由に活動できることを意味しなかった。


延長された期間にも、制限がある。


その制限をどのように受け止め、どのように行動するのか。


それは、これからの評価で判断することになる。


     *


翌朝、主人公は紹介元から新しい仕事の連絡を受けた。


別の倉庫で、数日間の整理作業があるという。


賃金と勤務時間を確認し、彼は仕事を引き受けた。


右手への負担も、今のところは問題なさそうだった。


準備をしていると、端末にメッセージが届いた。


レイヴンからだった。


仕事場で連絡先を交換していたわけではない。


短期の仕事を紹介した担当者が、必要な連絡のために、双方の了承を得て連絡先を伝えていた。


『おはようございます。昨日はありがとうございました。今日から、また別の仕事を探すことになりました』


主人公は返信した。


『こちらこそ。仕事が見つかるといいな』


少しして、返事が届いた。


『ありがとうございます。あなたも、次の仕事が順調に進むことを願っています』


それだけの短いやり取りだった。


主人公は端末をしまい、新しい仕事場へ向かった。


レイヴンが、これからどこで働くのかは分からない。


また同じ場所で会うことがあるかもしれないし、二度と会わないかもしれない。


それでも、彼と働いた数日間は、主人公にとって一つの経験になっていた。


問題が起きたとき、誰かを責める前に、何が分かっていて、何が分かっていないのかを確かめること。


自分が判断できることと、ほかの人間が判断することを分けること。


そして、協力することと、相手の責任まで引き受けることを混同しないこと。


どれも、特別な技術ではない。


ただ、実際の場面で使おうとすると、簡単ではなかった。


主人公は、歩きながら右手を軽く動かした。


痛みは、少しずつ減っている。


新しい仕事も決まった。


今日の予定は、ひとまず整っていた。


その先のことは、まだ分からない。


それでも、分からないことが残っているからといって、今できることまで止める必要はなかった。

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