第231章 先に動く者
レイヴンが倉庫へ来てから三日目、主人公は朝の訓練を終えたあと、いつもより少し遅れて仕事場へ向かった。
右手の痛みは以前より軽くなっていたが、力を入れるとまだ違和感が残る。
教師は、その状態を確認してから言った。
「痛みが減ったからといって、元どおりに使っていいわけじゃない。動かせる範囲と、負担に耐えられる範囲は別だ」
「分かっている」
「分かっている人間ほど、確かめずに動くことがある」
主人公は返事をせず、右手を下ろした。
教師は彼の反応を気にすることなく、地面に置いた小さな木片を足で動かした。
「今日は相手を倒す練習はしない。ここから出口まで歩いてみろ」
「歩くだけか?」
「歩くだけだ。途中で俺が進路を塞ぐ。お前は、止まるか、方向を変えるか、別の道を探すか、自分で決めろ」
主人公は木片の位置を確認し、歩き始めた。
教師が横へ移動し、通路の半分を塞ぐ。
主人公は反対側へ進もうとした。
すると教師は、そちらにも一歩動いた。
主人公は足を止めた。
「どうした」
「このまま進むと、距離が近すぎる」
「それで?」
主人公は一度後ろへ下がり、通路の外側へ回った。
教師は追わなかった。
「今のは、何を見て決めた」
「正面を通ろうとすると、先生の腕が届く距離に入る。右手を使って押しのけるのも避けたい。だから、距離を保てる方向へ回った」
「悪くない。だが、相手がそちらへ動く可能性もある」
「その場合は、また止まるか、別の方向を探す」
教師は小さく頷いた。
「逃げ道は、一つ見つければ終わりじゃない。使えなくなったときに、次を選べるかどうかだ」
主人公は、通路の先を見た。
以前なら、目の前の障害をどう突破するかばかり考えていた。
今は、突破する必要があるのかどうかも、先に考えるようになっていた。
訓練を終えた彼は、仕事場へ向かった。
*
倉庫では、レイヴンがすでに作業を始めていた。
責任者の説明を聞きながら、彼は棚から道具を取り出し、必要な場所へ運んでいた。初日よりも動きが自然になっている。
「昨日より早くなったな」
別の作業員が声をかけると、レイヴンは笑った。
「昨日、同じことを何度も確認しましたから。今日は少し覚えています」
「その調子なら、すぐに一人で任せられそうだ」
「責任者が許可してくれれば、ですが」
彼は軽く答えた。
主人公は挨拶をして、自分の作業場所へ向かった。
午前中は特に問題がなかった。
ところが昼前、責任者が作業員を集めた。
「午後から、作業の順番を一部変更します。奥の区画を先に片づけ、そのあと入口側へ移ってください」
何人かが不満を口にした。
奥の区画には、普段あまり動かさない道具が多い。先に入口側を片づけたほうが、作業がしやすいと考える人間もいた。
責任者は変更の理由を説明した。
別の業者が午後に道具を引き取りに来るため、通路を確保しておく必要があるという。
説明を聞いた作業員たちは、ひとまず納得した。
しかし、レイヴンだけは、変更後の作業順を確認してから尋ねた。
「引き取りに来る業者は、入口から入る予定ですか」
「そうです」
「では、奥の区画を先に片づけるとき、入口側の道具を一時的に移す必要がありますね」
責任者は少し考えた。
「そうなるな」
「移動先は決まっていますか」
「いや、そこまでは決めていない」
レイヴンは作業区画を見渡した。
「それなら、移動先を決めてから始めたほうが、途中でやり直すことが少なくなると思います」
責任者は、彼の提案を受け入れた。
作業員たちは、道具を置く場所を先に決めてから、片づけを始めた。
主人公はその様子を見ていた。
レイヴンは、誰かの判断を否定したわけではない。
変更そのものを拒むこともなかった。
ただ、変更によって新しく発生する問題を、作業が始まる前に見つけたのだ。
以前の主人公なら、こうした場面で何かを指摘しようとしていたかもしれない。
しかし、今は自分が担当する作業と、責任者が判断する範囲を分けて考えていた。
レイヴンの提案は、責任者が採用した。
主人公は、自分の持ち場で必要な仕事を続けた。
*
午後の休憩時間、レイヴンは倉庫の外で主人公を見つけた。
「少し聞いてもいいですか」
「何だ?」
「この仕事場では、作業の変更があったとき、誰が最終的に判断するんですか」
「基本的には責任者だと思う。変更を提案する人はいても、全員が勝手に変えるわけじゃない」
「そうですか」
レイヴンは、通りを歩く人々に目を向けた。
「現場の人間が一番詳しいこともあるのに、判断する人間が別にいる。難しい仕組みですね」
「現場の人間が詳しいことと、全体の責任を負うことは、同じじゃないからな」
主人公は答えた。
「作業する人間は、自分の目の前で何が起きているかをよく知っている。でも、ほかの場所で何が起きているかまでは分からないこともある。責任者も同じだ。全体を見ているつもりでも、現場の細かい事情まですべて知っているわけじゃない」
レイヴンは興味深そうに聞いていた。
「では、間違った判断が出た場合は?」
「気づいた人間が、分かっていることを伝えるしかないと思う。ただ、最終的にどうするかは、権限を持つ人間が決めることになる」
「その判断に納得できなかったら?」
主人公は少し考えた。
「自分が従える範囲なのか、従うと何が起きるのかを考える。どうしても危険なら、従わないこともある。でも、納得できないことと、従えないことは同じじゃない」
レイヴンは、しばらく黙っていた。
「あなたは、ずいぶん慎重なんですね」
「慎重にならざるを得ないことがあっただけだ」
主人公はそれ以上、自分の過去を説明しなかった。
レイヴンも、無理に聞き出そうとはしなかった。
「参考になりました。ありがとうございます」
彼は立ち上がり、倉庫へ戻っていった。
主人公は、その背中を見送った。
会話の内容に、特別な意味があるとは思わなかった。
ただ、レイヴンは仕事のやり方だけでなく、仕事場の人間がどのように判断しているのかにも関心を持っているようだった。
それが彼の性格なのか、短期参加者として環境を理解しようとしているからなのかは分からない。
今のところ、問題はなかった。
*
運営フロアでは、レイヴンの初期評価が更新されていた。
作業手順の理解速度。
現地の人間との協調性。
環境への適応。
いずれも高い数値を示している。
女性管理者は、記録を確認しながら、ある項目で手を止めた。
レイヴンは、与えられた権限の範囲を越えずに行動している。
しかし、権限を越えずに情報を集める能力は高い。
それ自体は違反ではない。むしろ、優秀な出演者に求められる能力の一つだった。
問題は、その能力を何に使うかである。
彼女は、現時点で評価を下げる理由はないと判断した。
だが、競合側から届いた追加申請には、別の動きがあった。
参加開始から三日しか経っていないにもかかわらず、活動期間の延長を前提とした準備が進められていたのだ。
正式な申請ではない。
あくまで、延長が認められた場合に備えた仮の予定表だった。
女性管理者は、担当者へ確認を依頼した。
「この予定表は、競合側から提出されたものですか」
「はい。こちらが延長を承認したわけではありません」
「分かりました。今の段階では、承認済みの条件を変更しないでください」
「承知しました」
彼女は画面を閉じた。
相手が先の予定を考えること自体は、不自然ではない。
ただし、準備していることと、許可されたことは別だ。
その区別が曖昧になれば、後から元に戻すことが難しくなる。
彼女は、予定表を保留の項目へ移した。
*
その夜、主人公は支援者から届いたメッセージを読んでいた。
『新しい仕事はどうですか。少しは慣れましたか』
『作業には慣れてきた。新しく来た人もいて、仕事の流れが少し変わった』
『変化があると、慣れるまで大変ですね』
『そうだな。でも、変更そのものが悪いわけじゃない。変更したことで何が起きるかを、先に考えられればいいと思う』
彼女から、少し間を置いて返事が届いた。
『変更を止めることと、変更による問題を減らすことは違う、ということでしょうか』
主人公は、その文章を読み返した。
『そういうことだと思う。全部を止めることはできないし、止める必要がないこともある。ただ、何も考えずに受け入れるのも違う』
『難しいですね』
『難しいな』
彼は短く返した。
彼女は、すぐには返信しなかった。
主人公は端末を置き、翌日の仕事の準備を始めた。
彼女の側では、未処理の評価資料がまだ残っていた。
外部出演者の参加条件。
競合側からの追加申請。
現地の反応と、運営側が設定した評価基準。
それぞれは別々の仕事だったが、少しずつ互いに影響し始めていた。
彼女は一つずつ確認していく。
今の段階で、すべての変化を止めることはできない。
だからこそ、何がすでに決まっていて、何がまだ決まっていないのかを見失わないようにしなければならなかった。
レイヴンの参加は、まだ三日目だった。
七日間のうち、残りは四日。
その先を決める権限は、まだ誰の手にも完全には渡されていなかった。




