第228章 戻らない仕事
工房の仕事が延期されてから三日が過ぎた。
再開の連絡は、まだ届いていなかった。
主人公は別の短時間の仕事をいくつか引き受け、生活に必要な収入を確保していた。どれも長く続く仕事ではなかったが、右手に大きな負担をかけずに済んでいる。
以前なら、一つの仕事が止まれば、その理由を知るまで落ち着かなかったかもしれない。
今は、理由を確認することと、次の仕事を探すことを分けて考えていた。
原因を調べても、止まった仕事が戻るとは限らない。
仕事が戻らなくても、生活は続く。
その日の午前、紹介元から連絡があった。
「先日の工房ですが、当面、作業を再開しないことになりました」
主人公は、相手の説明を聞いた。
「再開の見込みはありますか」
「現時点では分かりません。先方から、予定を組み直したいという連絡がありました」
「理由については、何か分かりましたか」
「一部の取引について、確認が必要になったという説明です。それ以上の詳細は、こちらにも伝えられていません」
主人公は、短く息を吐いた。
「分かりました。では、今回の仕事は終了という扱いでしょうか」
「はい。少なくとも、現在の依頼はいったん終了です。別の仕事が見つかれば、改めて紹介します」
「お願いします」
通話を終えたあと、主人公は記録帳を開いた。
工房の仕事が延期されたこと。
その後、再開の見込みが立たず、現在の依頼が終了したこと。
紹介元から説明された理由は、一部の取引について確認が必要になったというものだった。
それ以上は書かなかった。
彼は、止まった仕事を取り戻すために動くこともできたかもしれない。
だが、現時点では、工房側も紹介元も、具体的な説明を持っていない。誰かを訪ねて問い詰めても、得られる情報が増えるとは限らなかった。
それよりも、今は次の仕事を探す必要がある。
主人公は紹介元に、軽作業の募集があれば知らせてほしいと伝えた。
その日の午後、彼は訓練場所へ向かった。
教師役の男は、主人公の姿を見ると、右手の状態を尋ねた。
「痛みはどうだ」
「少しずつ落ち着いています。ただ、力を入れるとまだ痛みます」
「なら、今日も手を使う練習はしない」
男は、地面に置いてあった木片を拾い、主人公の前に置いた。
「今日は、状況を見て判断する練習をする。前回は、出口を確保することを考えさせた。今日は、出口が複数ある場合だ」
主人公は周囲を見渡した。
広い通路が二つ。狭い通路が一つ。人が出入りする入口が一つ。
「どこへ行くかは、状況によります」
「では、どんな状況なら、どの道を選ぶ」
主人公は、それぞれの通路を確認した。
「広い通路は動きやすいですが、相手からも見えやすい。狭い通路は、相手が追ってきた場合に動きにくくなる可能性があります。入口には人がいるので、危険が迫ったときに助けを求めやすいと思います」
「なら、入口へ向かえばいいのか」
「必ずしもそうではありません。入口にいる人が状況を理解してくれるとは限りませんし、相手が先に入口を塞いでいる可能性もあります」
男は頷いた。
「道の特徴を覚えることと、どの道を選ぶかは別だ。今の説明では、それぞれの利点と危険を挙げただけだな」
主人公は考え込んだ。
「まず、相手との距離を取れる道を選びます。そのうえで、人のいる場所へ移動できるかを確認します。相手が追ってこなければ、無理に走る必要はありません」
「相手が追ってきたら?」
「距離を保ちながら、別の道へ移れるようにします。ただし、手を使って相手を押し返すことは、今の状態では避けます」
男は、そこで初めて小さく笑った。
「自分の状態も、条件の一つとして考えられるようになったな」
主人公は、右手を見た。
「以前は、動けることを前提に考えていました。今は、できない動きもあります」
「できないことを知るのは、弱さを認めることとは違う。できると思い込んで失敗するより、ずっと役に立つ」
男は木片を片づけた。
「今日は、これでいい。実際に動く練習は、手が回復してからだ」
主人公は礼を言った。
帰り際、男が声をかけた。
「ところで、以前、お前が言っていた仕事の件はどうなった」
主人公は、工房の仕事が止まったことを説明した。
男は黙って聞いたあと、尋ねた。
「それで、お前はどうするつもりだ」
「別の仕事を探します。工房の仕事が戻るかどうかは、今のところ分からないので」
「理由を調べないのか」
「調べる必要がある情報が出てくれば、確認します。ただ、今は誰が何を決めたのかも分からない。自分が動いても、状況が変わるとは限りません」
男は頷いた。
「それでいい。だが、何もしないことと、今は動かないと決めることは違うぞ」
主人公は、その言葉を覚えておくことにした。
何もしないのではない。
今は仕事を探し、手を治し、必要な情報が得られたときに判断できる状態を維持する。
それも一つの選択だった。
翌日、主人公は紹介元から新しい仕事を紹介された。
町の外れにある小さな倉庫で、数日間、部品の仕分けを手伝う仕事だった。
担当者から仕事内容を聞き、賃金と作業時間を確認した。右手に負担がかかる作業が含まれていないことも確かめた。
条件に問題はなかった。
主人公は仕事を引き受けた。
指定された倉庫へ向かうと、責任者が作業台の上にいくつかの箱を並べていた。
「今日は、箱の番号と中身の種類を確認してもらいます。数が合わなければ、その場で知らせてください。箱の移動は、別の作業員が担当します」
主人公は頷いた。
作業を始めてしばらくすると、責任者が一つの箱を持ってきた。
「これだけ、記録と数が合いません」
主人公は箱の番号を確認した。
帳面には、部品が二十個と記されている。
しかし、実際に入っていたのは十八個だった。
「二個足りません」
「そうですか」
責任者は帳面を見直した。
「昨日の担当者が数え間違えたのかもしれません。念のため、前後の記録も確認します」
主人公は、箱の中身を勝手にほかの箱から補充することはしなかった。
責任者は過去の記録を確認したが、数がいつ変わったのかは分からなかった。
「この箱は、いったん分けておきます。確認が終わるまで、出荷には回しません」
主人公は指定された場所へ箱を移すよう、担当者に伝えた。
それで作業は続けられた。
休憩時間、別の作業員が主人公に話しかけてきた。
「こういう数の違いは、よくあるんですか」
「俺には分かりません。ここで働くのは今日が初めてなので」
「そうですよね。前の担当者が数え間違えたのか、途中で何かあったのか、今のところは分からないんですね」
「はい」
作業員は、少し困ったように笑った。
「誰かの間違いだと分かれば、話は早いんですけどね」
主人公は答えた。
「原因が分からないうちは、誰の間違いかも決められません」
「でも、誰かが責任を取らなければならない場合もありますよね」
「そうですね。ただ、責任を決めることと、原因を確かめることは、分けて考えたほうがいいと思います」
作業員は、しばらく考えていた。
「それもそうですね」
休憩が終わり、二人は作業へ戻った。
夕方、主人公は予定していた作業を終え、賃金を受け取った。
倉庫を出ると、空が薄く赤く染まっていた。
彼は、工房の仕事が止まった理由をまだ知らない。
昨日見た部品の記録と、今日見つけた数量の違いが、同じ問題につながっているのかも分からない。
だが、今の自分に必要なのは、分からないことを無理に一つの答えへまとめることではなかった。
明日も働く。
手を治す。
必要なときには、誰かに助けを求める。
そして、新しい事実が分かったときには、それまでの判断を見直す。
主人公は、そう考えながら帰路についた。
止まった仕事は戻らなかった。
それでも、自分の生活まで止まったわけではなかった。




