第227章 閉じられた入口
翌朝、主人公が仕事先へ向かうと、工房の入口に見慣れない紙が貼られていた。
臨時休業。
その下には、取引先の都合により、一部の作業を延期するという短い説明が添えられていた。
主人公は足を止めた。
昨日、責任者から受けた説明では、今日も軽作業が予定されていたはずだった。
彼は紹介元から受け取った仕事の確認書を取り出し、日付と場所を見直した。間違いはなかった。
入口の横では、二人の作業員が話していた。
「昨日の夕方、急に連絡が来たらしい」
「また仕事が止まるのか。こっちは予定を空けていたのに」
「俺に言われても困るよ。理由までは聞いていない」
二人は主人公に気づくと、話をやめた。
主人公は近づき、声をかけた。
「すみません。今日、こちらで作業する予定だったのですが、責任者の方はいらっしゃいますか」
「まだ来ていないと思う。連絡は受けていないのか?」
「延期の連絡は受けていません」
「そうか。俺たちも、昨日の夕方に知らされたばかりだ」
作業員は、それ以上詳しいことを知らないようだった。
主人公は、入口の紙をもう一度見た。
仕事が延期された理由は分からない。
昨日、若い作業員が持ち込んだ記録と関係があるのか。それとも、別の取引先の事情なのか。
今ある情報だけでは判断できなかった。
彼は紹介元へ連絡を入れた。
担当者は、しばらく確認したあとに答えた。
「工房側から、作業を延期したいという連絡が入っています。こちらも理由を確認しているところです」
「今日の仕事は、延期という扱いですか。それとも中止ですか」
「現時点では延期です。再開日が決まったら連絡します」
「今日の分の賃金については、どうなりますか」
「実際に作業していないので、今回の仕事については支払いがありません。ただ、こちらの連絡が遅れたことは確認します」
主人公は、説明を聞いてから電話を切った。
予定が変わったこと自体は、必ずしも誰かの不正を意味しない。
取引先の都合で作業が止まることもある。資材が届かなければ、仕事を進められないこともある。
しかし、仕事を受ける側にとっては、理由が何であれ、予定していた収入がなくなるという結果が残る。
主人公は、その事実を記録した。
仕事が延期されたこと。入口に告知があったこと。紹介元へ確認し、再開日は未定だと説明されたこと。
それ以上の推測は書かなかった。
帰ろうとしたとき、工房の奥から責任者が出てきた。
主人公に気づくと、責任者は少し申し訳なさそうに頭を下げた。
「連絡が遅れてすみません。昨日の夕方に、取引先から作業を止めるよう言われました」
「理由は分かっていますか」
「一部の部品について、受け渡しの確認が必要になったそうです。詳しいことは、まだ聞いていません」
主人公は、責任者の言葉を慎重に聞いた。
部品の受け渡しを確認する必要がある。
昨日、若い作業員が見せた帳面にも、受取人の署名がない記録があった。
しかし、二つの出来事が同じ原因で起きたと判断することはできない。
「作業の再開は、いつごろになりそうですか」
「まだ何とも言えません。確認が終われば再開できると思いますが、取引先の判断次第です」
「分かりました」
主人公は、それ以上質問しなかった。
責任者も、今は答えられることが少ないのだろう。
彼が必要としていたのは、誰かを追及することではなかった。自分が次に何をすべきかを決めるための情報だった。
「紹介元には、再開の見通しが立っていないことを伝えておきます。別の仕事を探しても構いませんか」
「もちろんです。こちらの都合で待たせることはできませんから」
主人公は礼を言い、その場を離れた。
別の仕事を探す必要があった。
収入が途切れることは避けたい。だが、焦って条件の曖昧な仕事を引き受ければ、別の問題を抱えることになる。
彼は紹介元へ連絡し、右手に負担の少ない仕事がないか尋ねた。
いくつか候補を確認したあと、午後から短時間の仕分け作業を紹介された。
主人公は作業内容と賃金、時間を確認し、その仕事を引き受けた。
午後、指定された倉庫へ着くと、担当者が作業台の前で待っていた。
「今日は、届いた部品を種類ごとに分けるだけです。箱の中身を勝手に移し替えないこと。数が合わない場合は、そのまま知らせてください」
「分かりました」
主人公は作業を始めた。
届いた部品の中には、同じ形で番号だけが違うものがあった。確認を怠れば、別の箱に混ぜてしまう可能性がある。
彼は一つずつ照合し、数を記録した。
しばらくすると、倉庫の入口から二人の男が入ってきた。
先頭の男は担当者に紙を渡し、低い声で話し始めた。
主人公には、話の内容までは聞こえなかった。
担当者は紙を確認し、首を振った。
「この指示だけでは、荷物を引き渡すことはできません」
男は不満そうに紙を指で叩いた。
「変更は伝わっているはずだ」
「こちらには、変更を確認できる記録がありません」
「担当者から話を聞いていないのか」
「誰から、いつ伝えられた変更なのかを確認できなければ、対応できません」
男はしばらく担当者を見つめていた。
やがて、紙を取り戻し、同行者とともに倉庫を出ていった。
主人公は、作業を続けた。
男たちが何を求めていたのか、彼には分からない。
ただ、担当者が確認できない指示による引き渡しを断ったことは分かった。
その判断によって、誰かが困ることもあるだろう。
荷物を受け取れなければ、次の仕事が止まるかもしれない。予定が狂い、費用が増えるかもしれない。
それでも、担当者は確認できないまま荷物を渡すことを選ばなかった。
主人公は、その判断の結果がどうなるのかを知らない。
だが、少なくとも、今ここで荷物が移動することはなかった。
作業を終えたあと、担当者が主人公に声をかけた。
「さっきのやり取りは気にしなくていいですよ。あなたの仕事とは関係ありませんから」
「分かりました」
「ただ、もし誰かに聞かれても、あなたが知らないことまで説明する必要はありません。実際に見たことと、聞いたことを分けておけば十分です」
主人公は少し驚いた。
「以前にも、同じようなことがあったんですか」
担当者は一瞬考えた。
「似たような問い合わせはあります。でも、毎回同じ理由とは限りません。荷物を急いで受け取りたい人もいれば、単に連絡が行き違っていることもあります」
「そうですか」
「何か気になることがあるんですか」
主人公は迷ったが、自分が関わっている別の問題について、詳しい話はしなかった。
「似た状況を見たことがあるので、少し気になりました。でも、同じ問題かどうかは分かりません」
「それなら、今はそれでいいと思います」
担当者は作業記録を受け取り、確認を終えた。
「今日の仕事は、これで終了です。お疲れさまでした」
主人公は賃金を受け取り、倉庫を出た。
夕方、直人と会うと、今日の出来事を簡単に話した。
直人は、工房の仕事が延期されたことを聞いて眉を寄せた。
「昨日の若い作業員の件と関係していると思うか?」
「可能性はある。でも、今のところは分からない」
「また、受け渡しの確認か」
「そうだな。ただ、今日の倉庫で起きたことまで、同じ問題として扱うつもりはない」
直人は少し考えた。
「お前は、何かが起きるたびに、原因を探したくなるんじゃないか?」
主人公は否定しなかった。
「そういうところはあると思う」
「でも、全部を追いかけていたら、仕事もできないし、手も治らない」
「そのとおりだ」
主人公は、右手を見た。
今の自分には、時間も体力も限られている。
何かが起きたからといって、すべてを調べる必要はない。自分が直接関係している問題なのか、誰かから助けを求められているのか、放置すれば取り返しのつかない危険があるのか。
それらを考えてから、動く必要があった。
「それに、原因が分かったとしても、俺に解決できるとは限らない」
「じゃあ、何のために調べるんだ?」
主人公は少し考えた。
「自分が何をすべきか判断するためだと思う。調べること自体が目的になったら、どこまでも追いかけることになる」
直人は頷いた。
「なら、今日の工房の件は?」
「再開の連絡を待つ。ただし、仕事が戻ることを前提にはしない。別の仕事を探す」
「それでいいと思う」
二人は歩き始めた。
主人公は、工房の入口に貼られていた紙を思い出した。
臨時休業。
たった数文字で、予定していた仕事は止まった。
そこには理由も、再開日も、誰が決めたのかも書かれていなかった。
しかし、紙を貼った人間が必ずしも悪意を持っているとは限らない。取引先から指示を受けただけかもしれないし、詳しい事情を知らされていないのかもしれない。
一方で、理由が分からないまま仕事を失う側にも、生活がある。
誰か一人の事情だけを見れば、別の誰かの負担が見えなくなる。
主人公は、そのことを以前よりも意識するようになっていた。
すべての事情を知ることはできない。
それでも、自分が知っている範囲を正確に扱い、知らない部分を勝手に埋めないことはできる。
そして、自分の生活を守るために、次の選択肢を確保しておくこともできる。
彼は、明日も仕事を探すつもりだった。
止まった仕事の理由が分かるかどうかとは別に、自分の時間まで止める必要はなかった。




