第225章 残された余地
その日の夕方、主人公は久しぶりに、支援者との個人的な連絡画面を開いた。
仕事を終えたあとに短い言葉を交わすことは、以前から続いていた習慣だった。
彼女は毎日必ず返事をするわけではない。仕事が立て込んでいる日もあれば、主人公自身が疲れていて、何も話したくない日もある。
それでも、互いに連絡を取り合う関係は続いていた。
主人公は、今日あった出来事を簡単に書いた。
仕事の指示が途中で変わり、確認しようとした人が仕事を失うかもしれない状況になったこと。自分は、その人の説明に同行したものの、結果を変えられたわけではないこと。
最後に、こう付け加えた。
『誰かの役に立とうとしても、実際に何かを変えられるとは限らないな』
送信してから、主人公は画面を閉じた。
返事を待つつもりはなかった。
彼女にも彼女の生活がある。こちらの都合で、すぐに答えを求める必要はない。
しばらくして、通知が届いた。
『何かを変えられなかったことと、何もできなかったことは、同じではないと思う』
主人公は、その文章を読み返した。
続けて、もう一通届いた。
『ただ、助けようとする側が、自分のしたことを理由に相手の選択まで決めてしまうなら、別の問題が生まれることもあるでしょうね』
主人公は、少し考えてから返信した。
『今日は、相手が何を望んでいるのかを先に聞いた。俺ができることを説明して、それでも一緒に来てほしいと言われたから同行した』
返事はすぐには来なかった。
主人公は端末を置き、夕食の準備を始めた。
片手でできる作業を選び、無理に右手を使わないようにする。簡単な食事を済ませたあと、医師から指示された範囲で手の状態を確認した。
痛みは昨日と大きく変わっていなかった。
焦っても、回復が早まるわけではない。
食器を片づけていると、再び通知が届いた。
『あなた自身が困っているとき、誰かに助けてもらうことはありますか』
主人公は、手を止めた。
問いかけの意味を考えた。
これまで、自分は誰かに頼ることを避けていたわけではない。直人には何度も助けられているし、負傷したときには医師の世話になった。訓練を教えてくれる男にも、自分一人では得られない知識を教わっている。
それでも、誰かに頼るときには、どこかで限界を決めていた。
相手に迷惑をかけすぎないこと。自分でできることは自分でやること。助けてもらったからといって、相手の望むとおりに動く義務が生じるわけではないこと。
それらは、彼にとって必要な考えだった。
だが、必要だからといって、いつでも簡単に実行できるわけではない。
『ある。直人にも、医師にも、訓練を教えてくれる人にも頼っている』
彼はそう返信した。
『でも、頼ることと、相手に全部を任せることは違うと思っている』
少しして、彼女から返事が届いた。
『そうですね。頼る側にも、頼られる側にも、できることとできないことがあるから』
主人公は画面を見つめた。
『あなたは、誰かに頼るのが苦手ですか』
今度は、彼のほうから尋ねた。
しばらく待っても、返事はなかった。
彼女にも答えにくいことがあるのかもしれない。
主人公は、それ以上メッセージを送らなかった。
彼女が話したくなったときに話せばいい。
自分が知りたいからといって、相手が答える義務を負うわけではないのだから。
その夜、彼は早めに休んだ。
翌朝、訓練場所へ向かうと、教師役の男が先に来ていた。
男は主人公の右手を見ると、簡単に状態を尋ねた。
「痛みはどうだ」
「昨日と大きく変わりません」
「なら、今日は手を使う練習はしない。医者に言われた範囲を越えて動かすな」
男は地面に置いてあった木片を拾い、少し離れた場所へ置いた。
「今日は、逃げるときの判断を練習する」
「走るんですか」
「走ることもある。ただし、速く走る練習ではない」
男は周囲を見渡した。
そこには、いくつかの荷物と木箱が置かれていた。通路は広い場所もあれば、狭くなっている場所もある。
「お前が何かに追われているとする。相手は一人とは限らない。正面から来るかもしれないし、後ろから近づくかもしれない。お前は、どうする」
主人公は周囲を確認した。
広い通路。木箱の間。外へ出られる入口。人のいる場所。
「まず、相手との距離を取ります。出口を確認して、人のいる場所へ向かいます」
「それだけか」
「相手が何をしたいのか分からないなら、接触を避けます。逃げられるなら、逃げます」
男は頷いた。
「では、出口が一つしかなく、そこに相手が立っていたらどうする」
主人公は、もう一度周囲を見た。
「別の出口がないか確認します。荷物の間を抜けられるなら、そちらも考えます。ただ、通れない場所に無理に入ることはしません」
「相手が動いたら?」
「相手の動きを見て、距離を取ります。こちらから近づく必要がなければ、近づきません」
男は、主人公の答えを聞いてから言った。
「今のは、答えとしては悪くない。ただし、実際に動けるかどうかは別だ」
男は、主人公に歩くよう指示した。
主人公が木箱の間を進むと、男は少し離れた位置から横へ移動した。
主人公は足を止めた。
「止まるな。止まるなら、止まる理由を持て」
主人公は、相手との距離を確認してから、進む方向を変えた。
男は追いかけてこなかった。
ただ、別の場所へ移動し、主人公の進路に入った。
主人公は、先ほど通った広い通路へ戻ろうとした。
「なぜ、そちらへ戻る」
「今いる場所より、動ける範囲が広いからです」
「なら、戻った先に別の人間がいたら?」
「その人間が何をしているかを確認します。危険がなければ、別の道を選びます」
男は手を上げ、そこで練習を止めた。
「お前は、出口を探すことばかり考えている」
主人公は黙って聞いた。
「出口を探すのは大事だ。だが、逃げる方向を一つに決めてしまえば、そこを塞がれたときに動けなくなる。お前が確保すべきなのは、出口そのものだけじゃない」
「選び直せる余地ですか」
「そうだ」
男は、木箱を一つ横へ動かした。
「相手の動きは変わる。周囲の状況も変わる。最初に選んだ道が正しいとは限らない。だから、状況が変わったときに、別の選択へ移れる位置にいろ」
主人公は、昨日の出来事を思い出した。
若い作業員は、最初に受けた指示と、その後に伝えられた変更の間で動けなくなっていた。
彼には指示書があった。変更を伝える人物もいた。しかし、どちらが正しいのかを確認できる場所がなかった。
彼は、選択肢がないというより、どの選択肢を選んでも不利益を受ける可能性がある状況に置かれていた。
逃げ道を増やすだけでは、すべての問題が解決するわけではない。
それでも、動ける余地がなければ、選択すること自体が難しくなる。
「先生」
主人公は尋ねた。
「相手がこちらの選択肢を減らそうとしている場合、どうすればいいんでしょうか」
男は、すぐには答えなかった。
「まず、本当にそうなのかを確かめろ。相手が進路を塞いでいるのか、それとも別の理由でそこにいるのか。それを見誤れば、必要のない争いを始めることになる」
「でも、確認している間に危険が迫ることもあります」
「だから、確認と退避を同時に考える。相手の意図が分かるまで、何もするなと言っているわけじゃない。危険があるなら、距離を取る。だが、分からないことを理由に、相手を敵だと決めつけるな」
主人公は頷いた。
男は続けた。
「それから、逃げられなかった場合のことも考えろ。逃げるのは、戦うより劣っているからじゃない。お前にとって、今、戦う必要があるのかを考えろということだ」
主人公は、右手を見た。
今の自分が相手と組み合えば、以前より不利になる可能性が高い。
それを認めることは、悔しくないわけではなかった。
しかし、負傷を無視して戦うことが、自分の力を証明することにはならない。
「今日は、ここまでにしますか」
「そうだ。手を使わなくても、考えることはできる。だが、考えたことを実際に動きへ変えるには、体が回復してからだ」
主人公は礼を言った。
帰り道、彼は訓練の内容を振り返った。
これまでは、危険を避けるために、相手の意図を見極めようとしていた。
だが、意図を完全に理解できるまで待つことはできない。
必要なのは、分からないままでも、危険を減らす行動を取れること。そして、新しい情報が得られたときに、最初の判断を修正できることだった。
その日の午後、彼は仕事の紹介元へ連絡し、翌日以降に受けられる軽作業があるかを尋ねた。
紹介担当者は、いくつかの仕事を確認してから、短時間の整理作業を一件紹介した。
主人公は、仕事内容と賃金、作業時間、右手に負担がかかる作業の有無を確認した。
条件に問題はなかった。
彼は仕事を引き受けた。
すべてが思いどおりに進むわけではない。
昨日の若い作業員の問題も、まだ解決していない。主人公自身の手も、完全には治っていない。
それでも、今の自分にできる選択は残っていた。
彼はその一つを選び、次の日へ進むことにした。




